大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

階段の下

階段の下

 僕が引っ越してきたとき、彼はすでにそこにいた。ずっと前からいたのだろう。はだけるようにしてうらぶれていた階段の、その下に、大きな体を丸めて座り込んでいた。階段は道路沿いにある文化住宅のものであり、僕は帰宅のときに道路を通るだけだった。その階段、文化住宅と縁があるわけではない、まったくの部外者だった。ただ、夜の道を歩いているとき、どうしても彼の姿を見てしまうのだった。それまでは何も関係ない、日常の混沌にいるのだが、階段に近づくにつれて僕の思考は彼のところに集まってきてしまうのだ。それは不思議な感覚だった。いくら僕が他のことを取り上げようとしても、彼に関する意識はほんの小さな隙間から入り込み他のすべてを投げさってしまった。考えは否応なしに彼にとらわれた。しかし、なぜか不快な思いはしなかった。

 彼はいつも階段の下にいた。クリスマスのときも、雨のときもそこにいた。いつも黒のコートに、黒の帽子を身に着けていた。破けてぼろぼろになっており、コートは肩のところが完全に剥げてしまっているようだった。みじめなイメージを寄せ集めたようなその衣服は、夏は暑く、冬には寒く見えた。

 隣にはいつも瓶があった。時折それは割れていたが、いつもは水が入れられていた。瓶、そして水をどうしていたかはわからない。いつもうつむいていたからだ。

 僕は道路を通っていく間、彼のことを見つめていた。壁があり、電柱があり、開けた空間の先に階段と彼があった。やがてまた電柱があり、花壇へうつると彼は見えなくなった。

 彼を見つめている間、僕はずっと一人だった。そこは駅から続く二車線の道路であり、人の行き交いも少なくはなかった。昼過ぎには高校生が、夕日の沈んだあとには多くのサラリーマンが通る道だった。ただ、彼のところに行きつくまでに夜に隠されるようにして人の数は減っていき、最後には僕と彼だけが残っていた。車が通ることはあったが、無機質にゴムが擦れる音だけしか残らなかった。テールランプが過ぎると、暗闇と静けさが先程より深くなったようだった。

 僕は彼のことをずっと見つめた。通り行くわずかの時に、彼のことを考えた。彼はうつむくだけだった。屋根の落ちたあばら家のようだった。雨音が階段をうつと、つよくそう感じた。

 

 いったい、彼はどれくらいの間そこにいたのだろう……僕が彼女ができた夜も、大学を卒業した夜も……設計士になり、花屋の少女の目にわずらいを覚えた夜も……雪になりきれない冬の雨が降る夜も、彼はそこにいた。白い息遣いで生きていることがわかった。階段にさえぎられて、光のほとんどは届かなかった。夜は、死ぬには充分なほど暗く、階段の下はもっと暗かった……僕は海に行った……花屋の彼女にはホテルで待つようにお願いして。空は雲で詰められていた。僕は一枚ずつ衣服を脱いだ。誰もいない浜に雲の鈍色が落ちていた。そっと体を海に浸し、奥にまで進んでいく。そして、沈んでいく。だが、息が苦しくなるまで深く潜っても、まだ足りなかった。光は呪いのようにまとわりついてきた。息を整え、もう一度潜った。だが、足りない……海の底には大きな石だけが沈んでいた。あとには何もない。ただ、黒い石だけだ。