大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

ひばち

甘い息

ドラクエをプレイしたことのある人なら知ってると思うんだけど、敵モンスターが甘い息という技をつかってくる。眠らせてくる、それも全体への攻撃でずいぶんつよい。けっこう印象的なわざだった。ボス戦でつかわれたりするとめっぽうきつくなる。そんな甘い息のことをいまになってもおぼえている。ドラクエのストーリーとか、ボスの名前とか、そういうのはまったくおぼえていないのだけど、甘い息だけが冬の風のように、いまもしっかりと心内にその感じをとどめている。

夏の夜(僕は夏の夜が好きだ)の風には、甘い息の感覚がある。風船のようにふくらんだ甘い息の感覚。色は古いピンクのようで、かたちは白波のよう。そんな夏の風は車がやってきたり、建物にぶつかるたび、くだけて、ちって、あるいは集まった水のようにくっついて、どんどんその形を変えていく。そして、変化の内にいつのまにか夜の風は僕の周囲をぴったりとくるんでいる。肩にのしかかる風、髪をひっぱる風、それらはうっとりとまぶたをおろしている。

 

ひばち

ひばち、という単語(言葉)にはかわいらしさがある。小さな鳥のささやきのようなゆるやかさだとも言える。すごく素敵に感じる。

感じることを言語としてかたちづくるとき、とても誠実にやるようにしている。うまく書こうとすればするほど、ほんとに表現したいことは感覚からすっと遠ざかっていく。

夜の帰り道……僕は一人で歩いていた。夏の甘い息がそっと服と背中のあいだにもぐりこみ、やがて首の裏筋を撫でて去っていった。

道路を一台のタクシーが走って行った。窓から落とされたタバコには、まだ幼い亀のようにちいさな火たちがくすぶっていた。火たちは、できたてのアスファルトのうえでてらてらと笑顔を振りまいたあとに、音もなしに消えていった。

ただ、火たちのひとつだけが、長い間そこに残っていった。ぼうっと歩いていく僕のそばで、まだ長くアスファルトに光っていた。いつかは消えてしまうのだろうと思った。ただ、僕の視界にあるうちは、ずっと赤かった。僕の記憶の中では、虫に食われた穴のようにして、ちいさくまだ残っている。