大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

古着屋最後の午睡

古着屋最後の午睡

「ドリームズ」

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ほんとうはもっと違うものを書こうと思っていた。ただ、買い物をしたり、夢想したり、公園に行こうとして行かなかったり、銀行のお姉さんの笑顔がいいなあ、と考えていたりしていて、まともに時間が取れなかった。そしていまに至る。作った🍝を食べきることさえできていない。

目標を線の向こうに置いて、それに向かっていく。しかしいつのまにか方向が東に2ミリずれてしまっている。そのせいで、辿り着いたときにはまったくべつの場所にいる。

こんなことがたくさんある……ぼんやりとしてしまって一日が流れてしまう。春の雲のようだ。空を亀が泳ぐように、多くの物事がゆるやかになってしまう。輪郭は外側にぼやけて、コーヒーのもやと同じくとらえることができない。その香りも、色も、熱さもわからない。そんなつもりではなかったのに、舌を焼いてしまう。

古着屋がつぶれるとなったときも、そうだった。その話を聞いたのはつぶれる2週間まえだったはずだ。貧乏だったのもあるけれど、古着特有の乾いた色が好きだったこともあって、ときどきに利用していた店だった。だからそのことにはびっくりした。そうなのか。残念だ。行っておかないといけないな。そう思った。

次にその話を聞いたのはつぶれる2日まえのことだ。もちろんまだ行っていなかった。とても近いところにあって、ちょっと歩くだけだったのに、そうしていなかった。

 

べつに、忘れていたわけではなかった。ただ、目標からそれてしまっていただけなのだ。それひとつだけに集中できるわけではないのだ。二週間のあいだに、僕のそばを多くのものがすれ違った。興味ぶかいものもあれば、異臭のするものもあった。本当に数多くのもとすれ違った。後ろに消えていくそれは一瞬僕の横に並び、やがて手の届かないところへ行った……

すれ違ったもののうち、かなりのものが僕を煩わせるものだったはずだ。古着屋の終わりは冬の暮れだった。だが、いまの僕もそのときと同じで、かなりのものに煩わされている。止むことなく、突き刺すように細い傷を残していくのだ。それは草原を埋め尽くす霧雨に似ている。ある種の呪いでもある。ただ、姿が見えないために誰も信じてはくれない。手助けも、理解もない。同情は僕自身で済ませるしかない。

早く呪いを解かなくてはならない……僕ひとりの力だけで。

 

2日まえになっても、僕が思うのは二週間まえと同じようなことだった。ああ、そうなのか。きっと、売れてないんだろうな。だけど、ちょっぴり残念だな。つぶれるまえに、きっと行っておかないとな……

最終的に僕が古着屋を訪れることはなかった。古着屋はきちんと店仕舞いをして、姿を消していった。はっきりと店屋が閉まるところを認識したのは初めてかもしれなかった。暗くなったガラス窓の向こうの服はすぐに片付けられた。駐車場の看板も、冷たくはためいていた宣伝文句も、一切合切がトランクに積み込まれた。そしてすれ違い、横に並び、消えていった。

あとには何も残らなかった。からっぽになった暗がりは、まったくべつの場所だった。座標が同じであるだけで、その空間の意味するものはわからなくなっていた。しじまのガラス板に夜の姿がうつり、車のテール・ランプがうつった。

 

古着屋最後の午後に、僕は眠っていたことを思い出す。めずらしい昼寝だった。二時過ぎのことだ。僕は眠りについた。

起きたときは、まるで一瞬の眠りに思えた。たった数十分のものでしかない、少しの眠り。しかし落ちた夕日のほうは、正しいデータを示していた。僕は自分の調節ねじを動かして、意識を現実と合わせて行く。

外に出るとずいぶん寒いことがわかる。歩いて隣のスーパーに向かう……自動ドアが開くとき、つやつやとした鉄の反射に、対向車線の店屋が映っているとわかる。もちろん、振り返りはしない。そっと足をそのまま進め、スーパーの内側へ入り込む。そう。鉄に店屋がうつったこと。そんなことに、何の価値もないのさ。知っていたんだ。日常の無価値を……僕は……

 

まぶたが重たくなると、身体が鈍いことに気がつく。きっと気がつかないところで、思考も鈍くなっているのだろうな。あとの時間には眠りが訪れて、夢を見るのだろう。もう一度古着屋を見たい。あの日常を……一年前の風景を思い出そうとする。日が傾いで、おぼろげな眠りが始まる……