大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

壁と線路のはざま

壁と線路のはざま

 これは短い話だ。

 ある作家が語っていた。「結局、書くことは事故療養ではなく、ささやかな試みにすぎない」。彼にその話をすると、鼻でふふんと笑ってから続けた。「そんなことはないさ。書くことで、救われる魂もある」。僕は安心する。溜まっていた不安とともに、息がすばしっこく抜けていく。「ただ」。彼はささやいた。「救われない魂もある。長く書き続けていても、壁に阻まれてしまう場合もある。先はない……最後には来る壁と線路のはざまで、死ぬことを考えるしかない」

 書くことは不思議なことだった。僕は書き続けていた。あるいはそれは自己療養だったのかもしれない。あるいはそれは心象風景の表出だったのかもしれない。後者の行為が自己療養だったのかもしれない。いまとなってはそれは問題ではない。迫りくる壁を前に、僕は筆をおいた。

 それはとても目が良くて、ずっと遠くから僕のことを見つけていたのかもしれない。僕が感知することのない、ずっと北の方にいて、雪のそばでこちらを見つめていたのだろう。それはゆっくりと、しかし確かな歩調で近づいていた。名前を冬という。

 始まりは突然だった。長い緊張のあとにおとずれたのではなく、隕石が地球を貫くように一瞬のことだった。ただ、僕が気がついたのだ。このように暮らしていても、まったくどこへも行けないと。考え付いたとき、僕は道路の端にいた。幹線から別れたわずかな道で、右手には川の道が、左手には線の浮き出たブロック塀があった。僕はブロック塀の側を歩いていた。思いついた考えを一度は否定した。そんなことはない、何も根拠はないじゃないか。まだ、努力し続けていれば、いつか転機はやってくる、と。ただ、否定を押しつぶすほど強い力が、僕を不安の渦へ引きずり込んだ。その力が何かは、はっきりとわからない。ただ、そのとき彼の言葉を思い出した。壁と、線路のはざまで……

 息が乱れていた。冬は夜空の奥深くにまで食い込み、あらゆる温度の余地を奪っていた。冬の夜は暗かった。白い息は様々な大きさをもって現れていた。息がひどく乱れていた。壁に手をやると、手袋の向こうから冷気が伝わってきた。鋭い礫のふれるとき、赤くなった指先に痛みがあった。しかし、感覚は薄れていく。

 精神的なものなんだ。そう考えていた。身体は大丈夫なんだ。そのはずなんだ……ただ、僕の身体はうまく動かなかった。錆びついたブリキ人形のように、運動はまったくなく、夜の冬に固定されていた。

 車がいくつか過ぎた。音もなく。預言めいたものを感じた。

 彼は僕のまえからいなくなるまで、いくつもの教訓を残してくれた。ブロック塀の隣で固まりながら、僕は彼のことを考えていた。しかし、顔も声も思い出せない。名前は無機質で、死んだ道標のように意味をなさなかった。

 また車が通り過ぎる。誰かが僕を気遣ったらどうしよう。そう考えた。きっと何も言えない、何も答えられない。相手を傷つけてしまうだろう。それからも車がいくつか通り過ぎた。アルミは輝いていたが、月は見えなかった。電灯は義務的に光っていた。僕はまだそうしていた。長いことだ。多くのことを考えていた。バイト終わりで、身体は疲れていた。家まではまだまだあったのに、なぜかそうしていた。そうせざるを得なかった。誰も僕に声をかけることはなかった。心配事は忘れられていた。

 僕は壁と線路のはざまに立ち、自分のやってきたことを考えていた。自分がやりたかったことを考えた。二つの始まりは同じだったが、着地していたのはまったく違ったところだった。頭も重く感じていた。肩には杭がうたれているようだった。息は小さく、難しかった。のどに握り拳ほどの息が溜まり続けていた。それは石のようで、ひどく冷えていた。

 最後に……雪が降った。気がついたらそれは降っていた。雪を境にして、僕はもう完全に動けなくなった。もうどこにも行けなくなっていた。夜は深く沈み続けていた。少しずつ人工的な光も消えていった。車もいなくなり、壁と線路だけが残った。僕はそのはざまにいた。

 これから少しずつ壁がやって来るのだ。そう思った。左手の感覚はなくなっていたが、それでもその先に壁があることがわかった。そして壁が形を変え始めていることもわかった。行き場がなくなるのだろう。線路はどこにも続いていないようだった。始まりもなく終わりもなかった。次第に冷たさは増していき、ある点のあとに死ぬことを意識した。

 道がまた現実の風景を取り戻した。あとには雪だけが残った。