大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

肩こり

肩がこる

寝不足のせいか、枕を使わなかったせいかわからないが、非常に肩がこる。肩がこると、なんとなく鬱屈とした気分を覚える。くるくると木の葉が風の中で回るように、僕の気分もかわいたように落ちていく。

肩がこることはいわば自動車に撥ねられるようなもので、どうしようもないものだ。多くの物事はたしかに運命的な力で突き動かされているが、肩こりはそれがじつにわかりやすくあらわれた形だと思う。いや、これは冗談ではない。肩こりは運命的に決定された絶望なのだ。もはや人事でどうにかなることではない。

 

れんが印の回想

僕がはじめて肩をこらせたのは小学校五年生のときだった。図工の時間で、僕は草原の象を描いていた。そのときにはじめていびつな肩の感覚があったのだ。

僕は、いつの日であろうとこういったことをいちいち覚えておいて、臨戦態勢にあるナイフのようにぎらつかせているわけではない。今日の日のように「肩がこった」というリールが記憶の海からそれを引き揚げるのだ。逆説的にとくのなら、「肩がこる」という発端がなければはじめて肩をこらせたときの経験はずっと忘却のなかにあっただろう。象は海賊船の隣で沈んでいたし、草原はスイスの高い山間で長い雪に閉ざされていたことだろう。

すべての宝物を守ったまま生きていけないように、われわれは記憶の貝塚をそれぞれに抱えている。そこにはいつのものとわからないような記憶が、それも重要でない記憶が、かぴかぴにかわいたままで打ち捨てられている。その貝塚は普段はひっそりとしていて、意識のまえに姿を表すことさえない。椰子の木の影にあって、誰も気づくことはない。ただ、とても重要な何かを発見したとき、それに引き付けられるように貝塚の奥深くから記憶は浮かび上がってくる。まるで特殊な磁石が唯一の鉄とくっつくみたいに、打ち捨てられていた記憶は手にとれるところにまで転がり出てくる。そしてしばらく経つと、また貝塚の中に放り投げられる。とても無闇に。

 

なんと言ったらいいのだろう? 僕はあまり音楽に詳しいくないのだが、古い記憶をくすぐるような類の音楽は存在する。カントリー調と言えばいいのだろうか。でも、違う気がする。

エルトン・ジョンにはとても「僕」という一人称が似合う気がする。彼の音楽は非常に不思議だ。表層の部分を見れば他と同じ、ふつうのかたちに見えるのだが、その中身は秋のかぼちゃのようで、魔法がぎっしりと詰まっている。エルトン・ジョンの「グッドバイ・イエロー・ブリック・ロード」はかぼちゃの魔法がじつによくわかる曲である。ここには力がある。過去というものに色を与える力である。オレンジや黄色、マーガレット色のきらめきを受けた過去の記憶たちは、たとえ打ち捨てられていても星屑みたいな素敵の印象を与えてくれる。僕はそう思う。

 

「グッドバイ・イエロー・ブリック・ロード」

youtu.be

 

 

夢想

肩がこったときはやはりやる気ができない。何もしたくない。坂道のうえのオレンジみたいに、ずっとごろごろと転がっていたい。そう思う。だから肩がこっているときは一日を無駄にしてしまいがちだ。もちろん、ごろごろすることは無意味ではない。ある意味では非常に優れた過ごし方であり、とても創造的な夢想の時間だと言える。ただ、当時の僕には悲しい感じがした。昼時にうとうとして、目覚めると夕方になっている。ベランダの向こうからやってくる重たい空気に思わず顔をしかめる。今日にしたことを数えてみようと試みるが、片手のぶんも満たせないで数え終わってしまう。やがてたそがれる。

それはたしかに悲しいことだった。いまでは違う。いまでは、そのように無為の時間があてられていた夢想の重要性を理解しているからだ。

長い人生を生きていく中で何も考えないことが重要なように、夢想もとりわけ重要なことだと思う。結局、現実とはとても冷たい場所なのだ。世界はタフなことで満ちている。そこに美しい絵の具をふりかけられるのは個人の考えのみであり、熱を与えられるのは夢想の考えだけである。そう思う。

 

今日はそんなに書く考えはなかった。さいきん『失われた時を求めて』を読んでいる。これもまた肩のこる文章なのだが、非常におもしろい。これのせいで、なんだか長々と、それもくるくるした文章を書きたくなってしまったのだ。ただ、こういった文章で困るのはその長さではなく、終わりの部分である。木の葉を回すつむじ風の終わりの部分を僕は知らない。うずは天井からうまれるのか、足元から生まれるのか、どこへ吹き去っていき、どこでくずおれるのか、僕はそれを知らない。

そう考えてみると、終わりなきものもよいなあと思う。回転はずっと小さくなっていくが、その終わりはないのだ。世界の数学的な秘密がそこにはある。それを僕は解明してみたいと思う。だけど僕は文筆家であり、数学者ではない。ただ、文筆家であっても、ずっと回り続けていれば、やがてその秘密を見ることができるかもしれないと思う。答えは導くものであるが、求めていればたどり着くものである。そう考えてみる。