彼の横顔(シーサイド・パートスリー)
彼の横顔
三十時間。これは私がこの三日間で睡眠に費やした時間だ。ちょうど十時間眠るのを三回繰り返した。一日目の夜、二日目の昼、三日目の朝からその夕方にかけて。私は起きるたびにストレッチをした。あまりに長い睡眠のせいで、筋肉が煉瓦のように硬くなっていたから。彼はそんな私の姿を眺めたり、掃除や料理をしたり、あるいは眠っていたりした。私と彼の目が合うこともあったし、そうでないときもあった。とにかく私はそのストレッチをしている間ずっと彼のことを見つめていた。ときには横顔を見つめているだけということもあった。彼の横顔は、まるで冷たい波に切り取られたノルウェーの崖のように、とても鮮明な線を描いていた。
私は彼のことが好き。愛している……少なくとも、そう考えている。ただ、彼が私のことをどう思っているかは、わからない。きっと愛しているのだとは思う。ベッドの中や、私が泣いているときは静かに愛の言葉を囁いてくれるから。だけどそれは慰めなのかもしれない。彼の純真な、澄み切った優しさからなる嘘なのかもしれない。本当のところ彼は私のことを愛しているのではなく、私を守ってくれている、それだけなのかもしれない。
そう考えると……胸が痛くなる。夜になると、そのことばかり考えてしまう。結局、彼は私のことを愛しているのかしら……私の手は筆を取る。不安な思いは黒の色になってキャンバスに現れる。考えたくないのに……考えてしまう。夜の潮風が吹き去ったあと、胸の痛みだけが残る。彼に愛して欲しい。風は何も言わない。
「マイ・バディ」
私は歌うのが好き。朝と昼、光の差し込むときに歌う。べつに好きなものとかはないけれど、スロー・テンポなものは歌いやすい。歌いながらチーちゃんがいればいいのにと思う。チーは実家の猫で、ずいぶん老けている。灰色の毛はところどころ剥げてるし、尻尾は濡れたぼろ旗みたいにぐったりしている。昔は夏になるとチーを撫でながら歌っていた。ここにチーはいない。それで少し寂しくなるときがある。カーテンのひだを数えて気を紛らわす。でも、チーはここにはいない。
ときどき、彼はふと思い出したように私の歌を褒めてくれる。とても嬉しい。私がそっと微笑むと、彼も微笑む。朝は私たちの間でそよぐようにして、透明な暖気を与えてくれる。
私はうまく話せないことで、自分が嫌いだ。昔からそう……彼に対しても。私が言いたい言葉はひとつも表せないままに、喋り終わってしまう。どうしてかはわからない。特別な理由があるかもしれないし、私と同じような人がたくさんいるのかもしれない。ただ、どのような条件であっても、本当の言葉を伝えられない自分のことは嫌い。大嫌い。何も言いたくない。でも、話すのは好き。それはきっと私が女性で、私が人間で、とても弱いからだと思う。
夜。彼が部屋を横切った。しゃんと背を伸ばしたまま、ゆっくりと歩いてきて、絵を描いている私のそばに座った。私はびっくりした。彼はじっと座ってからは何も言わなかった。私は「絵を描いているのだけど」と言った。彼は言った。
「仕事の邪魔をしちゃいけないのはわかってる」
「ただ」彼は付け加えるように言った。「嫌な夢を見たんだ」
「夢?」
彼はうなずく。
「それで寂しくなったんだ。だから君の近くにいたいと思ったんだ。少しでも近くに……そうしていれば救われるような気がしたんだ」
「どんな夢だったの?」
「いや……」彼はそう言うと、そこで口を閉じた。私はちょっとの間彼のことを見つめて、それから絵の続きに戻った。
どうして私は彼を抱きしめてあげなかったのだろう。少し腕を伸ばすだけでよかったのに……眠りながら……そう考える。閉じたまぶたを通り抜けて、朝の気配を感じる。部屋が色づいている。海は静かに音を立てている。雲がじゃれあっていて、朝食の香りが豊かに膨らんでいる。健気な朝にありながら、私だけが悲しい場所にいた。彼が朝食の知らせを運んできても、半時間くらいは眠りの中にいた。怖かったから。また私が彼のことを傷つけてしまうんじゃないか……そう思った。
怖かったから……
彼の横顔を見た。切り立った、冷たい横顔。
続くかも……