サンデイ
アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール
今日はのびやかな日曜日である。日曜日とは、とくに宗教的な問題と関係なく、どこか素敵な印象がある。大学生となったいまでは日曜日だからといって休みなわけではないし、平日が完全な休日となることも少なくない。それでも日曜日について考えるとき、そこには高揚感がとりついている。どうしてそうなるのかはわからない。あるいは遺伝なのかもしれない。日曜日という存在はずっと昔からあって、僕らに高揚感を与えていたのかもしれない。まぶしい光のまえでくしゃみをしてしまうように、骨に埋まった記憶なのかもしれない。ビカリアもきっと日曜日にはわくわくして、落ち着きがなかったのだろう。
夏であっても、僕が飲むのはホットのコーヒーだ。アイスのコーヒーを飲んでもいいのだけど、やはりホットを飲むと体が落ち着くのがわかる。夏であっても、静かなコーヒーの時間を取り除くことはできない。それにしても暑いな、と思う。もう17時だというのに、窓のそとはぴかぴかとした昼の光が満ちている。水気の多い絵の具のように、雲は白い色と青い空に消えつつある。ホットのコーヒーを飲みながら、夏を観測していた。
僕は甲子園が好きだ。こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれないけど、甲子園が好きだからと言ってそれを見るわけではない。結果を追うわけでも、球場に足を運ぶわけでもない。ただ、あの熱量を気持ちよく感じるのだ。とても巨大な芋虫のかたちをして、夏の空気は陸塊のうえに横たわっている。甲子園の熱量はつるつるとした表面をすべって、こっちのほうにも伝わってくる。
サンデイ
薄い紙がやわらかな春の雨にうたれて、少しずつ溶けていく。そのさまは人間の考えることに似ている。やがて紙に穴があいて、青の下地がうっすらと見えてくる。
人の思考はひどく不定形なものだと思っている。くっきりとしたかたちをもたず、ゴムアヒルのようにあっちにいったり、こっちにいったり……そして僕の思考はじつにそうだと思う。僕はときに多くのものに関心をもつ。ものからものへ、バッタが飛び移っていくみたいに。
アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォールには人の不安を煽るようないびつさがある。悲しくはない。むしろ気分の盛り上がりさえある。その不安感はじつに壁と、崩されるれんがの関係を表現できていると思う。ホールのようなところで人のむれのひとつとして、話を聞いていたり、何かを眺めていたりするとき、ふと壁が崩れてくる感覚を覚えることがある。そんなことはない。壁には亀裂のひとつさえない。ふつふつと、音をとらえる可愛い穴が空いているだけだ。だけど、そんな感覚を覚える。もちろんそれはにわか雨がさっとあがっていくみたいに、すぐに僕の考えから離れていく。
どうしてこうなるのかはわからない。これも、ある意味では遺伝からなるのかもしれない。ビカリアに落ち着きがなかったのはサンデイのためでなく、その複雑な思考のためだったのかもしれない。酸素の薄い海でたゆたいながら、崩れてくる壁のことを考えていたのかもしれない。
18時を回り、あんなに薄っぺらく見えた雲にもくっきりとした陰影がつきはじめた。僕は木工の職人が何を彫っているのか知らないけれど、雲を彫って欲しいと思っている。ちょうどマグカップくらいのサイズに彫られた雲のことを想像してみる。それをちょっと掲げれば真昼のように高くなり、遠くに置けば薄っぺらくなる。近づけばそこには深く彫られた跡があり、光が吸い込まれていく暗い穴がある。
サンデイのつぎにはマンデイがやってくる。そうわかっていても、まだサンデイには親しみがある。どうしてだろう? それはわからない。ただ、雲のように寄り添う優しさを感じてやまない。
やがて夜が来て、サンデイが終わっていく……夜の暗闇にあっても、空には白い雲が浮かんでいるはずだ。そう考える。