大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

アラビアータの朝食と、近鉄の電車(シーサイド・パートツー)

旅行者の朝食

 三日目、僕は朝食としてアラビアータのパスタをたっぷりと作った。朝の光が撒かれた豆のように窓から差し込む時間に、二人でそれを食べた。かなりお腹が膨れたので昼食は抜きにした。彼女はイカが美味しいといった。昨日のうちに買ってきておいたのだ。

 朝食を済ましてしまうと、彼女は眠り、僕は家事をした。家事は僕の得意分野だ。早くやるのではなく、長い時間をかけてきちんとする。ひとつずつを丁寧に、そして落ち着いて片付けていく。縁側で眠る猫を起こさないくらいそっと優しく抱えて、もっと涼しい場所へ移してやるみたいに。

 家事の間、ジャズを聴いていた。日本から持ってきたレコードだ。レコード・プレイヤーはこっちで買った。海岸沿いにニ十分ほど歩くと、こぢんまりとした商店街がある。そこには人間の生活に必要な店が最低限そろえられていた。魚屋、八百屋、肉屋、電気屋……ダイナーに映画館。映画館は三つあった。三年くらい前の映画を流しており、色の抜けたポスターの中のジャッキー・チェンは、けっこう気持ちよく青ざめていた。電気屋は町の角にあった。アルミの戸はずいぶん熱くなっていて、ドアノブには煤けたタオルが巻き付けられていた。そっと開けると、中には入道雲に負けないほど、白く、そして太った女店主がいた。女店主はじろりと物珍しげに僕の顔をしばらく見つめて、ふんと鼻息を吹いた。僕はソニーのレコード・プレイヤーを買った。日本より安かった。僕が買ってしまうと、女店主はのっそりと頭を降ろし目を閉じた。それは地元の猫の佇まいに似ており、どこか親近感を覚えた。

 

「ボリヴィア」

youtu.be

 

 シダー・ウォルトンのすっきりとしたピアノみたいに、家事を終わらせるとずいぶん清々しい気持ちになった。彼女は家事をやっている途中も、終わった今になっても眠っていた。午後の最後の光を集めたように真っ白なシーツに体を沈めて、彼女は今日も固定されたみたいに眠っている。僕は彼女の眠っている姿が好きだった。手製のスツールを持ってきて座り、三十分ほど彼女をじっくりと眺めていた。ソルティー・ドッグを作って飲んだ。それからヒヤシンスの水を入れ替えて、土産物屋で買ったサテンの人形を一緒にして窓辺を飾った。光が人形の耳に集中していて、触れると古い記憶みたいに暖かみを感じた。

 彼女は昨晩もまた絵を描いていた。昨夜は一睡もせずに。

 キャンバスに掛けられた布をめくると、そこには下から覗きこむようにして高架と、電車と、夜空が描かれていた。電車というのは、近鉄の電車であり、僕と彼女が日本にいたころよく乗っていた電車だった。車体は風のように丸く、鈍色をした鉄の冷たさの隣で牛革のようなこげ茶の色が続いていた。夜空に星は少なく、いくつか死んだ虫のように小さな白の点が転がっているだけだった。

 僕は絵のことわからない。だけど、この絵は少し好きだった。彼女らしさもあるが、まだ暖かい雰囲気があったからだ。僕はそっと布をキャンバスに掛け直し、ちょっと彼女の方を見た。彼女はまだ眠っている。その顔つきはやわらかい。どこか遠い国の、午後の夢を見ているのだろう。木陰のそばに残された、穏やかな午後の夢……僕はそう思った。

 

続くかも……