大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

分点

パープル・レイン

作文を書くのが久々な気がする。実際にそうでもある。作文はおおむね書きだめて予約投稿をしているので、七月十九日の投稿物であっても過去の僕からの声であったりする。しかし、これを書いている僕は七月十九日の僕である。生の僕であり、ざらついた僕である。

このごろ色々忙しかった。長い洞窟のようなところで考え事をしたり、古い鈴の音を求めて電車に乗ったりしていたからだ。忙しいだけが原因ではない。僕に直接かかわらないことであるにしろ、とても心揺さぶられる出来事があり、そのために書けなかった。それは僕を悲しくさせた。まるで雨雲の向こう側へ引っ張っていくロープのように、ぐっと強く僕の心を引き込んだ。それについても色々考えて人と話していた。答えは出なかった。沈黙と祈りだけが残った。雨は雲の向こうでも降っていた。

心が沈んでいるときの雨は、どこか紫の色を纏っているように思える。もちろん雨に色なんてない。ただそう思うだけだ。紫の雨は僕たち肉体をすり抜けて心に直接降り注ぐ。心は雨を吸収してスポンジのように膨らみ、長い時間をかけて元のかたちに戻っていく。

 

分点(あるいはEquinox)

先日、カポーティの小説を読んだ。

彼の小説を読むたびに僕が思うのは「まったく僕にはこんな文章書けやしない」ということである。僕が好きなのは彼の初期作品(『夜の樹』)だが、どうやったら二十代という若さでこれを書けるのだろうと思う。僕とカポーティはもちろんその素質の時点で雲泥の差があったはずだが、やはり何かしらの分点は存在していたのだろう。ある時点で僕とカポーティは同じ道を歩いていたかもしれない。しかし、ある分点を境にして僕たちは違った道を歩き出す。その道はとても近くにあるものだが、決して同じ道ではない。確実な差があるのだ。差は果てしない距離をかけて少しずつ膨らみ、最終的に僕とカポーティはまったく違った場所に立っている。

 

サックス・プレイヤーの巨匠に、ジョン・コルトレーンという人がいる。彼もカポーティと同じく極めて優れた才能を持つ。どうすればあのようなジャズができるんだろう? 僕はじつにそう思う。とくに彼の「ブルー・トレイン」なんかを聴いているとそう思う。カポーティの小説然り、そこには魂の響きのようなものがある。

そんなジョン・コルトレーンの曲のひとつに「分点(Equinox)」というものがある。

 

Equinox

youtu.be

「分点」の意味をこの記事では「分かれ道」として扱っている。ただ、彼の「分点」とは「春分点」といった季節の間隙を指す。その二つには大きな違いがある。

 

 

僕はこの曲を聞いたとき、とても素敵だなと思った。そして作品を書きたいと思ったんだ。これを軸にしてね。

だけど、できなかった。その理由はかんたんだ。僕と彼の間に大きな差があったからだ。それはきっと才能の差といってもいいだろう。抱えているものの差。経験の差。表現できる力の差。そういった差が、僕と「分点」を突き放した。僕は目を伏せて諦めた。この素敵な世界を描くことを。

 

しばしばそういったことがある。表現したいことを目の前にして、それに手が届かず、諦めてしまうといったことが。その度に僕は残念に思う。もっと精進しようと考える。もちろん、いつもそう考えている。だけど、表現の壁にぶつかったときはとくにそう思う。自分の手のひらを見つめる。それをにぎったりひらいたりする。それが現実の僕だ。

僕たちは分点に気がつかない。通り過ぎて、離れ始めてからやっと考え付く。しかし考え付いたときにはもう遅い。通ってきた道はすでに崩れてしまっていて、時間を巻き戻すことはできない。ここはゲームの世界ではない。タフな世界だ。

だけど僕は過ぎ去った分点について考える。長く思考する。そこに意味はない。ただ、そうすることで救われるように思えるのだ。過去の失敗が無駄ではなかったのだ、と。ただ、本当にそこには意味はない。すべては過ぎ去って行ったものだ。いくら考えようとも、沈黙と祈りの他には何も残らない。

それが分点である。