大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

川岸の船

Twitterのプロフェッショナル

僕はずいぶんTwitterを長くやっている。正確にはわからない。ずいぶん昔ということだけが記憶として残っている。ただ、Twitterはレコードやコカ・コーラとちがって最近の発明なので、はじめたときを確認することができる。

 

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いわく、2012年の9月だそうだ。2012年の9月、僕はいったい何をしていたんだろう? Twitterをはじめたこと以外、2012年の9月が残しているものはない。いま僕はハタチなので、当時はジュウサンということになる。なるほど。ジュウサンでTwitterをやりはじめるなんて、ずいぶんませているように思える。そしてそれをいまもずっと続けているなんて、ずいぶん子供っぽく思える。僕はこうしてビールを飲むようになったが、その中身はジュウサンのときからまったく変わらないのではないだろうか。階段みたいに斜めに折れた線があるのではなく、飛行機雲みたいなまっすぐの線があるだけじゃないのだろうか。

 

アサヒを飲みながら、そんなことを考えていた。目の前には池がある。亀がたくさんいる池だ。中央の島にはブタクサが二本生えていて、夜の風ゆらゆらゆれている。亀は僕を見つめている。もぐもぐとろばみたいに咀嚼しながら。

いったい亀はなにを考えているのだろう?

川岸の船

Twitterをやっていると、多くの人と出会うことになる。

いや、実際には出会っていない。僕はふんだんにリプライで会話するタイプではない。どちらかというと眺めるタイプだ。Twitterとは通りについた窓のようで、僕はそのガラス越しに彼らの行く末を考えている。

Twitterは現実世界ではないのだが、まるで現実世界のようにたくさんの人がいる。コーラを飲む人、コーヒーを飲む人、ドイツのF1ドライバーもいるし、骨の付いた肉を振り回してどぶねずみを退治する人もいる。もちろん僕と彼らには相性があり、僕が気に入る人がいるのと同じくらいに僕が気に入らない人がいる。そしてとりわけ気に入った人を集めて、カラーひよこみたいに白い柵の中に入れる。それを眺める。これがTwitterのシステムである。

柵に入れたカラーひよこと書いたけれど、僕が管理しているわけではない。ひとつのひよこには多くの場合一人のひとがいる。そのひとがTwitterを動かし、僕がそれを観測しているのだ。だからひとたびそのひとがTwitterを止めてしまえば、こちらからはもうなにも観測できない。これは川岸の船によく似ている。僕たちは各々小さな船で広い川をくだっている。すれ違いざまに話しかけ、あるいはとても仲良くなるだろう。しかしそれは川岸の船で、錨をおろしているわけではないし、ロープで縛られているわけではない。時間という流れにさらわれてしまえば仲良くなったとしても、離れなくてはならない。場合によってはもう二度と会うこともない。

 

うまれたときからインターネットがあった。僕はインターネットで多くの人と出会ってきた。現実世界と同じように……現実世界の人々は、遠くなってしまったとは言っても過去の欠片を集めていけばいつか会うことができるように思える。しかしインターネットの彼らはそうではない。ひとたび流されてしまっては、もう会うことはかなわない。顔や声を思い出そうとする段になって、僕は彼らについてまったく何も知らないことに気がつく。

だが、現実世界も、きっと同じなんだと思う。物事はほとんどが流れなんだろう。一度流れてしまったら、もう会うことはむずかしい。川岸の船は僕らに涼しい時間を与えるが、それはいつの日か幻想となる。思い出すことは出来ても取り戻すことはできない。あの日に流れてしまった水は、二度と同じ川を流れない。

 

そうわかっていて、僕は人と出会う。あるいは人が僕と出会う……そしてしばしのあいだ、僕らは小さな茶会を開く。温かい紅茶を誰かが淹れる。僕はやさしく微笑む。日だまりの時間がすぎていく……

そういうことって、素敵だと思います。ずっと残り続けるものがあれば、僕らはとても安心する。ただ、失うとわかっていても、ほんとに素敵なことっていうのは、じつに愉快なことなんです。きっと、そうなんだろうと、僕は思います。