摩訶不思議放物線
ペーパーバック・ウライター
「Writer」という単語を日本語に起こすとき、僕はウライターとするようにしている。どことなく変な感じもするが、あえてそうしているのだ。そもそも、英語をカタカナで表現するということ自体がきわめて歪な工程であり、多少(あるいは甚大な)ちがいが生じてしまうことは仕方のないことである。しかし「Writer」をライターとすることはどうしても許せない。これは個人的な考え方だが「Writer」という単語のもっとも優れている部分はその「ウ」にあると考えている。それが重要な意味を持つのだ。それが核心なのだ。突かれるべき点であり、落とされるべきナイン・ボールである。だから僕はウを欠かすことはできない。どんなときでも、たとえ女の子の前であっても、僕はウ無しにはやっていられない。
ところで、これは今日の作文とは関係のない話だ。僕は関係のない話をするのが好きだ。無意味なものはいかんせんありきたりだが、複雑な無意味であればその状況はすこしちがってくる。そういうことだ。
残り続ける
僕は文章を書いている。作文に限った話でなく、小説やエッセイも(まあ作文の定義があまりにも曖昧なのだが)書いている。そしてそういった作品はある場所に投稿されて、冊子になる。
冊子になるといっても誰かが金を払って読むわけではない。いわゆる私益のかたまりのような、こぢんまりとしたペーパーバックだ。だが、そういったものを手に取ったときには重みを感じざるを得ない。その重みとはつまり、僕の作品が残り続ける重みだ。この時点で、僕と作品は切り離される。僕の意思にかかわらず、作品はその足をうねらせて時の中をさまようことになる。そしてその光景は、まるでアラバマに星が落ちるようなことで、とても不思議に思えるのだ。
アラバマに星落ちて(Stars Fell on Alabama)
摩訶不思議放物線
運命とは不思議だ。どこからかわからないけれど、僕たちの運命はひょいと突然現れる。そしていまこうして世界の時間を縫うように泳いでいる。僕たちが運命であるのに、どこへどう行こうとしているのかはまったくわからない。もしかしたら明日キリマンジャロにいるかもしれない。城崎で足湯につかっているかもしれない。
ただ、運命に関してひとつ確定されているのは、それがどこかに沈んでいくということだ。ある場所から放たれた運命は、その距離、角度、速さ……多くの不確定要素を有しながら非常に高くまで打ち上げられる。そして夜空の中でしばしの間輝いたのち、放物線を描きまたどこか知らない場所に沈んでいく。輝きもすぐに立ち消え、また夜霧の冷たさが空を覆う。そういった刹那的サイクルが僕たちの人類史の中で繰り返されてきたし、繰り返されていく。
しかし、僕の書いた作品はそうではない。文章は非情に長く空を漂う。僕の手から離れ、ある種の媒体に根ざした作品はもちろん紆余曲折はあるものの、わたり鳥のように夜空を横切っていく。海を越え、キリマンジャロを超え、足湯を超える。
言い方を変えれば、それはじつに長い時間をかけて沈んでいく摩訶不思議放物線ともできる。それは持ちあがったり、とたんに速度を落としたりしながら、ふらふらとやっていくのだ。それはじつに奇怪な様子だ。そうやって不安定に飛び続ける作品にも、僕の魂の欠片が宿っているのだから。
世界には多くの不思議が残されている。女の子の秘密もそのひとつだ。作品という離れたものが、同時に僕を有しながら、僕亡きあとも続いていくというのはまったくおかしなことのように思える。うまく想像できない。しかし歴史はいままでそのようなサイクルを続けてきた。死人の灰を土台にして建てられた家々にあかりが灯っている。きっとそれは正しいことなのだ。僕らが気がつけないだけで、世界には死人の色がちりばめられている。
僕はまたこうしてひとつ新しい作品を夜空に放った。これはどのような放物線を描くのだろう? 誰かの頭の中でかたちを変えながら飛び続けるのだろうか。ネットの海でたくさんの流れに混じり大きな流れを作り出すのだろうか。はっきりとはわからない。僕にはまったく想像ができない。ただ、それは飛び続けている。どんな色を放っているのだろう? それも僕にはわからない。作品は放物線を描きながら僕のほうを見てにやりとする。それからちょっとだけ輝いて、山の向こうの、認知の外側に消えていった。