大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

空の間隙

空について語るまえに

授業にBGMがあってもいいと思う。ルネサンス期の政治情勢について勉強しているときに、音楽があってもいいと思う。それと同じで、作文にBGMがあってもいいと思うのだ。今日はじつに静かな、短い作文だから、チェット・ベイカ―の「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」なんかが、しっくりくるんじゃないかと思う。

 

マイ・ファニー・ヴァレンタイン

youtu.be

 

空の間隙(あるいはパリ・スケッチ)

僕はときに詩を読む。基本的には小説なのだが、たまに読む。小説はとても好きなのだが、詩には特別な意味合いがあるように思う。嵐のあとに訪れる、空の間隙のような作用がそこにはある。感傷でもなく、激情でもない。すべてが去ったあとに残った極めて自然な心で、僕は詩を読む。

僕には、好きな詩人が何人かいる。T・S・エリオット、エミリー・ディキンソン、カミングス、萩原朔太郎寺山修司……同時に苦手な(あるいは、僕がもつ空の間隙と色を異にしている)詩人もいる。ホイットマンボードレール、ポー……僕は感覚的な詩人を好む傾向にある。もちろんすべてがそうだ、というわけではない。あくまで傾向だ。ただ、そういった傾向を見極めることで、僕自身が抱える空の色を少しずつ理解することができるように思える。

好きな詩人と苦手な詩人がいる。そしてもっとも愛している詩人がいる。ポール・ヴェルレーヌ。その人だ。

彼の詩の美しさは、そのあまりにも繊細な心から来ていると思う。好きな彼の詩はいくつもある。「秋の詩」、「月の光」、「よく見る夢」……すべてを挙げてしまうことはできない。

そんなヴェルレーヌの詩において――もっともというわけではないのだが――好んでいる詩が「パリ・スケッチ」だ。

 

  鈍い角度の天上から
  月光の鉛の色が降っていた。
  とんがり屋根のてっぺんから
  もくもくと黒いけむりが切れ切れに
  5の字の形に立っていた。          

 ――『ヴェルレーヌ詩集』堀口大學訳、新潮社

 

星の剥片

美しき世界を眺めるとき、僕らは星の剥片のような感性を持つ。その鋭い欠片で、世界を切り裂き、自分の内側にそっとしまう。それを繰り返すことで、ようやく世界に思いをはせることができる。世界は僕らにとってあまりにも巨大な存在だ。一度に受け入れてしまえるものではない。夜空が与えてくれる星の剥片で、長い時間をかけて小さく切り分ける必要がある。

詩を読んでいて思う。世界はまだまだ秘密に満ちていると。詩は世界を提示する手段のひとつである。しかし、ほんのわずかな量だけしかそこには描けない。短い人生で、ひとりの詩人が掴める世界など、夜の路地裏程度でしかない。

僕は人と話すのが好きだ。人と会話することの本当の意味は、それぞれが切り取った世界を交換し合うところにあるのだろう。そう考える……

星の剥片は、すべての人々に与えられているが、同じものはひとつとしてない。それぞれにそれぞれの大きさがあり、鋭さがあり、色があり、かたちがあり、艶やかに反射する断面がある。元はひとつだった星は、砕けることによって無限の形態をとることになった……僕らがもつ星の剥片。それぞれが切り取れるものは、決まっている。砕けてしまったいま、すべてを切り取ることはできない。だからこそ、他人と接することにより、世界を交換し、自分で切り取れる以上の世界を理解しようと試みる。だから、僕は人とふれあうことが好きだ。人が好きだ。素敵に感じている。いとおしく思う。

 

世界は未だ美しく、無限の未知に溢れている。むごい話だけど、きっとすべてを明らかにすることなんてできやしない。ただ、それでも僕はできるだけ世界を知ろうとする。それが僕の生きる意味のように思う。僕の力、そして人々の力で、世界を明らかにすること。

僕は美しいものが好きだ……世界は美しい……そう思う。

きっと、風はすべてを知っているのだろう。だから彼らはいつもわざとらしく吹き去っていく。教えてくれよ、と思う。彼らはなにも言わない。秘密を教えてくれることはしない。あとには遠い夜のにおいだけが残る……