大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

マーチ・ブラウンのスケッチ

マーチ・ブラウン

僕の大学のそばに、マーチ・ブラウンというカフェがある。

大学の厳めしい正門がある。つぎに、ぱたぱたと乾いたまばたきをする信号機がある。そしてキンモクセイの曲がり角があり、うさんくさい(あるいはうさんくさくない)不動産があり、マーチ・ブラウンがある。

マーチ・ブラウンはとても素敵なカフェである。こぢんまりとしたカフェである。席は二十人分ほどあり、四人席がよっつ、あとはカウンター席である。午前に行くとモーツァルトなどのクラシックがかかっていて、午後に行くとビートルズがかかっている。上の奥の棚のところにビートルズのレコードの箱がたてかけられていて、ずいぶん古びているがどこか好意的な印象を受ける。

マーチ・ブラウンはとても素敵なカフェだ。タバコがだめという人以外はぜひ行ってみてほしい。いいカフェだからだ。

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マーチ・ブラウン

 

パリのミッシェル

今日、僕はマーチ・ブラウンでカフェオレを飲み、オーブン・サンドを食べた。オーブン・サンドにはチーズがたっぷりとかけてあった。朝焼けのやわらかな雪みたいなチーズだ。客は僕を入れて三人だった。ひとりはテーブル席で新聞紙をひろげていた。ひとりはマスターを捕まえて、「最近の水泳選手はなっとらん。国から金をもらっているのだから真剣にやるべきだ」と話していた。マスターは「時代がちがうんですよ」と言った。その顔は濃いブラックを飲んだときみたいに苦かった。

ちなみに僕はビートルズを歌っていた。「ミッシェル」を歌っているとき、新聞紙の客がじっと僕のことを見つめていた。

 

ミッシェル

youtu.be

僕はとくに気にせず歌っていた。みーっしぇる、ま、べる。客は新聞紙に目を戻した。

 

そのあと彼がやってきた。彼は帽子をかぶっていて、スマホと財布を持っていた。僕と同じだ。マスターがメニューを彼に渡した。僕は待った。彼はホット・ケーキを頼み、紅茶を頼んだ。マスターが「ホット・ケーキのセットでよろしいですね?」と言った。彼はまごつきながらもうなずいた。きっとセット・メニューのことを知らなかったのだ。

彼は僕にぴかぴかのルーズ・リーフをくれた。僕はありがとうと言った。

 

「僕が昔パリにいたとき、仲のいい女の子がいたんだ」

「はい」

「昔、パリに留学してたんだ。パリ大学に、だ。パリ大学といっても、じつはいくつもある。僕はパリ大学のひとつの、留学生のための宿舎に泊まっていた。宿舎はふたつあった。留学生のためのものと、それ以外の学生のためのものさ。どちらも石造りの古い建物だ。ただ違いがひとつあって、エアコンは僕らのところにしかなかったんだ」

「へえ」

「その女の子と僕はカフェで出会ったんだ。ちょうどこういう感じの素敵なカフェだった。それ以来彼女はよく僕の部屋に来て涼んでいった。僕はカギをかけたりしなかったから、いつのまにかエアコンがついたりしていたんだ」

「はい」

「彼女はとても賢明な子だった。自分のきちんとした意見を持っていたんだ。たしかに、みんな意見を持つことには持っているよ。だけど、彼女はその意見をしっかりと伝えることができた。僕は彼女のそういうところが気に入っていた。僕と彼女は話をした。ずいぶんね」

「はい」

「ただ、彼女にはエキセントリックなところがあってね……ある雨の降る日、僕は部屋にいた。パリはよく雨が振るんだ。しとしととした古い写真のような雨だ。やる気を削るのに、すごく効果的な雨だ。僕はとくにやることもなくて、外を眺めてた。そしたら誰かが宿舎の前で何かしてるんだ。そう、それは女の子だった。彼女は雨の中で踊っていたんだ」

「へえ」

「僕は彼女と親しかったけれど、知らなかった。どうやら彼女は雨が降ると躍るらしい。僕以外みんな知ってた。僕は彼女に訊ねたんだ。どうして踊るんだい って。彼女は雨が好きなのよと言ったんだ。すごくまっとうな意見だと思ったし、素敵だと思った」

「はい」

「それから僕は雨が降ると躍る彼女のことを眺めていた。宿舎のみんなが彼女のことを眺めていた。ある意味で、それは彼女のステージだったんだ。石畳のステージでステップを踏む彼女とパリの雨は、とてもいいコンビだったよ」

「なるほど。おもしろいですね」

「ありがとう」

 

「ねえ、いまの話、ほんとのことだと思う?」

「うーん、難しいですね……」

「いいよ、ゆっくり考えてみて」

 

どうですか? あなたはほんとだと思いますか? この話。

ただ、彼女の名前は、忘れてしまいました。

 

「現実のことだと思います」

「うん。素敵な答えだ」

僕はそう言った。