大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

筋の通ったこと。はだかの鱒。

*今回の作文は真剣にとらえないでください*

でたらめ

たまに、でたらめなことを書きたくなる。

いうなれば指の赴くままに文字を連ねてみたくなるのだ。かたかたかたかた…………と。ただ、そういったものは当然ひどく安っぽい。思考なんてほとんどなく、右足を出せば左腕が前に出るのと同じで、反射の感覚でしかない。それでもそんなものを書きたいときがある。その理由はもちろんわからない。僕には多くのことがわからない。女の子の口説き方も、コーヒーの美味しい入れ方も、買ったはいいものの余らせてしまっている卵の消費方法もわからない。いったい何が僕にわかるというのだろう? 何が正しくて、何が安っぽいのだろう? そう考えてみれば、反射もべつに許せる気がする。

ねえ、許せる気がしませんか?

 

もうすでに、反射で文章を書いてしまっている気がする。思考は氷海をいわし雲のように漂っている。

 

筋(ライン)の通ったこと

一本の線がある。線はなんでもいい。道路の白線でも、飛行機雲でも、スターリン様式の建築物に見られる、長く鈍い色をした真っすぐな壁でもいい。とにかく線がある。それはある点から始まり、ある点に終わる。それはじつに真っすぐである。一片の曇りなく真っすぐである。そして僕はとてもそういう線が好きだ。すごく素敵だと感じるし、きわめて象徴的だな、と感じる。実際にその線が何を象徴しているのかはわからない。曲がった僕たちの生き方を揶揄しているのかもしれないし、運命の単純さや、思考の馬鹿馬鹿しさを表現しているのかもしれない。あるいは乾いたパスタを表現しているのかもしれない。もし、真っすぐな線がパスタを表現しているのであれば、それはとても好ましいことである。

僕は真っすぐなものがとても好きだ。それはつまり誠実な人が好きなのだ。きちんとしている人とも言えるだろう。誠実な心とはじつに美しいものだと感じる。もちろん、誠実であっても失敗することはある。誠実がゆえに、ある局面では失敗しまうこともあるだろう。だが、それでも僕は誠実さというものを素敵なものに感じる。それはきっと僕の初恋の女の子が誠実な人間であったからであろう。

 

はだかの鱒(kirimi)

初恋の女の子と同程度に、僕が好きなものがある。そう、はだかの鱒である。

べつにはだかの鱒という言葉が何かを隠喩しているわけではない。ここでのはだかの鱒というのは、捌かれて、うろこも皮も剥がれた、いわゆる切り身(kirimi)状態の鱒のことである。

 

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はだかの鱒と、非はだかの鱒

はだかの鱒がおいしいことも確かだが、僕はその筋の通ったところを存分に評価したいと考えている。

はだかの鱒はとてもよい。筋肉の繊維が一本、一本流れるフォルムで引かれている。それはつつがなく端から端まで続いており、僕に安心感を与える。光を受けててらてらと輝くそれを見るとなんだか安心する。ああ、鱒って筋が通ってていいなあと思う。

 

弁明

いったい僕は何を言っているんだろう? そう思う。

基本、作文は前半と後半に分けて書くようにしている。意識的にそうしているというよりは、僕があまり集中力のあるタイプではないから、自然にそうなっていると言った方が正しいだろう。だから、後半を書き出す際は前半を見てから書くのだが、これはいったいなんだ?

僕はさっきジンを飲んだ。ジンのロックだ。ずいぶん気持ちよく酔っている。しかし前半の文章を読んだところで、素面に戻った。まったくもって理解できないのだ。これはどういうロジックなんだ? どこにポイントがあって、どうやって解釈すればいいのだ? わからない、わからない。いったいこれはなんなんだ?

 

弁明しようと思う。

最近色々あったのだ。とにかく。十分に疲れるだけの理由があった。パスタを茹でたり、二日連続で洗濯をしたり、北海道の違法味噌ラーメンをしょっぴいたり、モアイ像に薬液をかけて修復したり、サッポロ・ビールを錬成したりしていたのだ。それらはもちろん楽しい日常であったが、かなり僕を疲弊させることになった。

同時並行でカフカの「城」を読んでいたのも、きっと悪かった。僕はカフカが好きだ。僕がとやかく言うまでもなく彼の小説は優れている。加えて、カフカはアイデアのヒントを抱えている。創作の道しるべのようなものだ。カフカの「城」はそれを僕に提示してくれた。こっちだよ。こんなアイデアもあるんだよ。だが、それらはじつに難解である。陵墓の道のようにきつく入り組んでいる。きっとそのアイデアが僕に悪影響を与えたのだ。わざわざこのように理由を立てなければ、上記のような文章を書いてしまった言い訳ができない。

しかし、とにかくやってしまったことにはやってしまったのだ。それは覆すことはできない。過ぎてしまった飛行機雲、切れてしまったサーモンだ。並べ直しても元通りにはならない。ふるふるとはためき、シンクの中で泳ぎ出したりはしない。

僕が悪かったと思う。もうこれ以降こんな文章は書かない。心ではそう決意する。しかし、これは通常の僕が書いたものではないことも事実だ。だから僕を信じてほしい。

この「はだかの鱒」は戒めとしてアップ・ロードする。決して作文の数稼ぎではない。これはおこないなのだ。そうだ、僕は筋が通ったことが好きなのだ。だから失敗もあえて認めないことには前に進めないのだ。

懺悔の意味をこめて、僕ははだかの鱒を買ってきて食べようと思う。それが誠実なことに思えるのだ。ちなみに僕は鱒が好きだ。うん、好きだ。

 

申し訳ございませんでした。

僕は謝ることが好きだ。