大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

だいこんおろし

プーランクプーランク

 僕はその日の作業を終えて、ごろごろとしていた。ずいぶん疲れてもいた。夏の農作業はかなり骨が折れる仕事だ。どの季節もある意味ではうんざりするのだが、やはり暑さというのは耐えようにも耐えられないものである。それに、汗でどろどろになったシャツを着ることにもうんざりする。だが、ある程度我慢しないと日に六回はシャツを着替えることになる。それはやはり気がひけるし、妻に文句を言われてしまう。そう、僕はどのみちうんざりするしかないのだ。人生とはうんざりの繰り返しだとも言える。

 ソファのうえでくつろぎながら、CDプレイヤーでプーランクノクターンを聴いていた。彼の演奏はとてもよい。昔からの好みだった。無邪気さと聡明さが両在している彼の音楽を聴いていると、自分も日常から抜け出せるように感じるのだ。時間がガス体のようにぐんぐん膨らんでいき、とても穏やかな気持ちになれるのだ。

 

youtu.be

 

 その日は音楽に集中できる気分だったし、外は穏やかに晴れたままひっそりとしていた。鳥は僕を気遣って静かにさえずり、日光はカーテンのように窓際でぱたぱたとはためいていた。

 ただ、電話がかかってきて僕のプーランクプーランクは中断された。僕はぐったりとしたゴムのような体で立ちあがり、ぱたぱたと歩いて行って電話をとった。

「ねえ、だいこんをおろしといてくれないかしら」妻の声だった。

 

だいこんおろし

 僕たちの一団の土地は広い農地の中にぽつんと立っているモニュメントのような家屋と、その影に隠れている背の低い納屋で構成されている。納屋には作業道具がぎっしり詰め込んであるのと同時に、獲れた野菜もひとまずここに入れられている。僕はぱたぱたするゴムの足で納屋の前に立った。夏の季節にあっても、納屋のまわりはどこか冷たい印象があった。扉はずいぶん黒くくすんでおり、屋根はぽろぽろと崩れてしまいそうに見えた。もちろんそう見えるだけで、実際はずいぶん丈夫に作られている。ただ、納屋という概念に染み付いた象徴的古めかしさが、そのような印象を与えていた。

 そんな納屋の中で、だいこんは奥の上部に置かれている。納屋はずいぶんごみごみしたところで、だいこんを取り出すにはそれなりの覚悟とか意気込みみたいなものが必要だった。まずは手前の農具を片付けないといけない。もう使われなくなった鋤や鍬。古いタイプのタイヤに、トマトジュースのためのからのびん。びんは箱にたくさん詰められていて、それを五箱分降ろさなくてはならないのだ。僕はすーっと息を吐いて、吸い込んでからまずそれらに取り掛かった。どれもずっしりと重く、外に運び出すだけでけっこうな量の汗をかいた。つぎに薪のたばだ。これの向こうにだいこんがある。ただ、薪はほんとうにたくさんある。いくら少なく見積もっても、成人男性四人分はあるだろう。五年前に薪も灯油も切れてしまって冬に苦労したのでこうやってため込んでいたのだ。僕はためいきをついた。どうしてこんなに薪を片付けなくちゃならんのだ? 僕は軍手をひっぱって、指の感覚をはっきりさせた。それからもう一度深呼吸してとりかかった。ただ、もちろんそれも一筋縄ではいかなかった。どれくらいの時間がかかったのか正確にはわからない。薪を片付けている間に夜になってしまったことは確かだった。薪を納屋の前に出し切ってしまうと、僕はもうすっかり疲れていた。もうだめだ。これ以上は動けない。そう思った。だいこんはちょっと脚立を持ってきさえすればおろせるのだが、それもすごくおっくうに思えた。

 僕はしばらく納屋の中で座りこんだ。外は夜だというのにひどく暑い。納屋の中だけはその暗さもあいまって幾らか涼しく感じられた。納屋にはたくさんのほこりが過ぎていった時間のぶんだけつもっていた。僕が何かを運び出そうとするたび、ほこりは無邪気に舞い上がり、僕のからだにまとわりついた。

 納屋の中で座っていて、僕はここが実はとても静かな場所だということに気がついた。それは氷のような静寂だった。光は星と月だけで、屋根のこちら側にはもちろん入ってこない。暗闇と静寂があった。僕がふと納屋の中を見渡しても、闇の中で道具や野菜やらはじっとしていた。口を開いて喋りはじめたり、立ち上がってワルツを踊りだしたりすることはなかった。

 その光景はじつに不思議な感じがした。僕はいつも音のある世界に生きているのだな。そう思った。そこではすべての考えが一度静けさにのまれ、少し変質したものとなって浮かび上がった。いつのまにか僕のうんざりした気分もなくなり、落ち着きを取り戻していた。

 僕がそうやっていて想像したのは南極の氷だった。僕は妻と一度南極に行ったことがある。南極は北極と違い、朝と昼は気分よく空が晴れる。氷塊は澄んでいて、溶けだした水は、氷の上で白昼夢のように輝いている。

 しかし夜になると南極は本当に沈黙してしまう。それはこの世界の始まりと終わりを想起させた。氷が流れる音さえ聞こえず、ただ光のみが長い時間をかけて色を変えていくのだ。何も動かず、何も聞こえない。南極の夜を見たのは僕一人だけだった。そこに立っているとき、何億年という時間が僕を捕まえた。それは巨人のような存在で、非常に強い力で僕をそこに固定する。人間の単位ではどうしようもない、運命のような力。気がついたとき、僕がそこに来てすでに三時間が経過していた。僕は周りを見渡すがそこには何もない、誰もいない。漠々とした氷海があるだけだ。僕は防寒具越しに自分の顔をこすってみる。そこには自分であるという実感はない。肉体が、南極の風景に取り込まれてしまっているのだ。僕は振り向いて駆け出した。そうでもしないと、永遠にそこにいてしまいそうだった。

 

 僕が気がついたとき、夜はずいぶん更けていた。そう、納屋の中で僕は同じ体験をしたのだ。疲れていたが眠っているわけではなかった。きちんと起きていた。ただ、僕の身体は納屋の世界に固定されていた。納屋の雑貨や野菜と同じように、僕もその一部として機能していたのだ。僕は怖くなってすぐに家に戻った。家には妻がいて、僕のことを怪訝そうに見つめていた。ただ、僕は本当に怖かったのだ。僕は妻にそのことを話した。納屋と南極の氷について。妻は僕の態度を見て、その話を真剣に聞いてくれた。

 

グリルド・スチールヘッド

 ただ、僕はもちろん愚か者だった。これは認めよう。だって、僕はわざわざ納屋のだいこんを下ろしてくる必要なんてなかったのだ。冷蔵庫にあるだいこんを、おろし金でごしごしとするだけだよかったのだ。妻は僕の話を聞いたあと南極の夜より深い溜息をついて、僕を細い目で見つめた。それはおろし金のように冷ややかであり、じつに切れ味のある眼差しだった。僕はそのあとだいこんをおろした。当然、ごしごしとやっただけだ。そのだいこんおろしをかけて食べる焼きにじます(グリルド・スチールヘッド)はとても美味しかった。妻が釣って来てくれたのだ。ここまでにじますを美味しいと思ったことはこれより後にも先にもなかった。だいこんおろしも実に効果的にその苦みを発揮していた。

 晩御飯を食べてしまうと僕は満足した。いろいろあったが、すべてを吹き飛ばしてしまうほど焼きにじますがよかったのだ。妻はまた僕を見つめた。じっと。

「呆れたわ。その楽観的な生き方には」

 そんな雰囲気の眼差しだった。

 

 その夜、僕はがんばって一切合切を納屋に戻した。そして納屋の扉をがたんと閉じた。

 少し行った先で、僕は納屋の方を振り返った。もし、もう一度扉を開けたらこの向こうは南極に繋がっているかもしれないな。そう考えた。どこか遠くで虫がじりじりと鳴いている。納屋はいつものようにくっきりとした静けさを抱えている。夜の空は高く、南極にまでつながっている。納屋はそんな南極の夜を受けて、どう思うのだろう? 

 冷たさの程度でいえば、納屋と南極は並んでいた。あるいは、納屋の方がずっと南極より冷たいかもしれない。夜はそのように納屋を映し出していた。天文学では証明できない、闇の魔法がかけられていた。

 静かな場所とはいつも可能性に満ちている。最後に僕はもう一度振り返った。納屋はひっそりと沈黙し、秘密めいた態度をとっていた。