ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイドと死んだ人
ワイルドとはなにか?
そのような問いが世間を席巻していた時代があった。これはおやじギャグではない。韻を踏んでいるのだ。
いま、その時代のことを思い出すと、どうにもくすくすとした笑いがこみあげてくる。どうしてあんなことに必死になっていたんだろう、結局ワイルドに意味なんてなかったじゃないか。そんなことを考えてしまう。それと同時に、いま、僕たちがこうして歩いている時代も、そのように意味のない時代なのだろうなと、考える。
時代に意味はない。僕らの行動の目的は意味を持たない。僕たちはやがてやって来る結果に対して意味を持たせるために、なんとかこの時代を生きている。そう言うこともできる。
とにかく、過去にはワイルドによってすべてが支配されていた時間があった。それだけは確かな、意味のある歴史だ。
ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイドと死んだ人
ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイド。これは僕が考えた言葉ではない。曲名である。邦題は「ワイルド・サイドを歩け」となっている。うーん、まあそういうことですよね。これを歌っているのはルー・リード。有名なことには有名なのだが、べつにレノンやジミ・ヘンのように神格の衣を羽織っているわけではないこともあって、日本ではそこまで名を知られていない。ただ、僕はずいぶんと彼のことが好きだ。彼のにこやかな顔をじっと見つめたり、歩んできたその経歴を読んだりすることが好きだ。彼が「サボイ・トラッフル」でバリトン・サックスを吹いているという点は、きわめて好きだ。
この歌は多くの人の破綻を描く。それぞれはそれぞれの生き方をしている。独立しており、共存ではない。彼らの共通点はじつに僅か、たった二つだけだ。いずれ破綻してしまうという点、ワイルドであるという点、この二つだ。
ワイルドであること。それはつまり、自己の感覚を手放さずに、世界にぶつかっていくことだと僕は考える。ただ、それはもちろんきついことだ。正確に表現するなら、命を投げ出すということだ。いくつもの時が流れ、ワイルドという言葉はずいぶん安っぽくなりつつあるが、ワイルドという言葉、その本当の意味は実にハード・ボイルドな存在である。固く、厚く、ときに入り組んでいる。多くの人々はワイルドにあこがれるが、ワイルドであるとはどういうことかを理解するにつれて、自分には無理だと諦めて、その道から去ってしまう。
本当に僅かだが、僕はワイルドな人々に――そのワイルドな時代の話だ――であったことがある。多くの人と同じように、僕はそのとき知らなかったのだ。ワイルドとはつまり、どのようなことかを。僕は彼らに憧れ、彼らとしばらく同じ道を歩いた。僕は訊ねて回ったんだ。
「どうやったらワイルドになれるんですか?」
彼らは何も言わなかった。僕は自分がとても些末な取るに足らない存在だと思い、少し悲しくなった。そして彼らの道から外れた。
時代が終わり、つぎの時代がやってきた。僕は縁があって彼らのことを思い出し、もう一度会いたいと思う。あのころの僕は若かった。ワイルドなんかに憧れていたなんて。でも、彼らは本当にワイルドだった。素晴らしい人だった。そんな彼らとあと一度だけでいいから話してみたい。そう思ったのだ。
ただ、彼らはもうすでに死んでいた。肉体として、あるいは精神として。ドラッグや尊厳のために死んでいった。僕は彼らに会うことはできなかった。そして、その墓にすら赴けなかった。彼らの多くはこの世界にどんなモノをも残さなかったからだ。彼らが遺したのは、僕らが憧れたワイルドだけだった。ただ、それがとても大事のものだったのだ。いまの僕はそう思う。ワイルドとはつまり、自己の感覚を手放さずに、世界にぶつかっていくこと。そして、僕や君たちのような、人の心に残り続けることだったのだ。
彼らはすべて死んでしまった。ワイルドであることと引き換えに。僕はときどき彼らのことを思い出す。深夜の幹線道路をまた一台のバイクが走っている。空気を押しつぶして速く、速く、そしてどこまでも走って行く。走ったあとに唯一残ったその音も、やがて時代とともに忘れられた。