大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

くすんだトタン

カエルの吉蔵

 カエルの吉蔵が目を覚ますと、空はぴったりとはりつくような雲で覆われていた。ごしごしと顔を洗って、はみがきをして、ゴミを出してから洗濯機のスイッチをいれた。そしてもう一度空を見た。グレイの色をした雲が青の色を完全に駆逐している。これは雨の雲だな。吉蔵はそう思った。テレビをつけて、天気予報のチャンネルを探した。大きな目をしたニュース・キャスターが今日は一日中雨が降りますと言った。そしてテレビを消した。

 雨が降り出したのは昼前だった。正確な時間はわからない。ネット・サーフィンからふと意識をこちらに戻したときにはすでに雨がぱさぱさと降りはじめていた。細く小さな雨粒が、なにに再現されることなく町のずっと向こう側まで降りそそいでいた。その光景はこどもの頃に見たフナの大群を思わせた。吉蔵はグラス二杯ぶん水を飲んだ。それから掃除機をかけた。パスタを茹でようとして、やめた。昨日釣ったわかさぎをからあげにして食べた。それから美代子に電話をかけた。いまからデートしないか? ちょうどいい長い雨が来てるから。そう言った。美代子はうんうんとうなったあとに、いいよと言った。こするような音が電話口から聞こえていた。美代子には考えているとき頭の左後ろをかく癖があった。時間と場所を決めて電話を切った。吉蔵は部屋掃除の続きをしようと思ったが、あまりそういう気分ではなかった。デートのために身だしなみを整えたり、財布の金をチェックしたりした。それから眠ってしまった。

 吉蔵が待ち合わせ場所についたのは、約束の時間の10分あとだった。だいぶ息が切れていた。こんなに走ったのはいつぶりだろう。そう思った。足が疲れていて、まるで伸びきってしまったようだった。しばらくは口を大きく開いてぜえぜえと息をしていた。通りかかる他のカエルは、そんな吉蔵を横目に雨の町中を過ぎていった。

 どれくらいたったあとのことだろう。吉蔵はしばらくぼぉっとしていた。覚せいのとき、意識はひとつの音にあった。息はいつのまにか落ち着いていた。吉蔵はその音に気を取られながらも、なんとか美代子に電話をした。ただ、それには誰も出なかった。不思議と吉蔵がショックに感じることはなかった。その音だけを長いこと聞いていた。

 音はトタンに雨水がはねる音だった。待ち合わせ場所だった駅では多くの店屋に再開発が吹き荒れていたが、自動券売機のそのところだけはまだ旧時代の流れを残していた。

 吉蔵はその音を聞いて思い出していた。町がすっかり変わってしまったこと。昔好きだった女の子のこと。あのとき持っていた夢のこと。吉蔵はぱちりとまばたきをした。それからごしごしと目をこすった。それでも音は消えなかった。コルクの栓が抜けてしまったように、古い思い出ばかりがとめどなく溢れてきた。吉蔵は美代子のことなんてすっかり忘れてしまっていた。空が重さを増すように暗くなっても、気がつくことはなかった。

 美代子が遅れて来て吉蔵にあやまったとき、なんだか変な感じがした。心ここにあらずといった感じだ。そしてそれは雨が降っている間ずっとそうだった。ディナーのときも、バーのときも、ベッドのときも、ずっと吉蔵はぼぉっとした顔つきをしていた。二つの目は何もとらえていなかった。透明の幽霊を見つめているようだった。

 

 つぎの日になると吉蔵はいつも通りだった。美代子は訊ねた。どうして昨日はあんなふうだったの? と。吉蔵は昨日? と言った。べつに昨日は普通だったでしょ。何か変だった? そう言った。美代子はちょっと困ってしまって、そうだったわ、と言って、それきりだった。吉蔵は朝ごはんを食べながら、天気予報のチャンネルに切り替えた。何もないよ、普通だよ。とぼけるように、いつもの日を演じていた。