大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

ココモ

ココモ

youtu.be

 

夜に、静かな空間で麦茶を飲みながらじっとしていると、なんだかうずうずしてくる。べつに、このままでいけないというわけではない。ただ、ずっと遠くの世界の姿が目の裏に浮かんで、そこへ飛んでいきたいという欲求に追い立てられる。レモンの林、ありったけの草原、女性の瞳のようにきらきらとしたビーチ、海……もちろん、僕は麦茶を飲んでいるだけで、とてもそこへ行けない。あくまでも人間は二本の足で立っているのだ。どれだけ長くても、どれだけ鍛えあげられていても、人間の足では風のうえを歩けはしない。結局はきらびやかな世界の姿は夢想のかたちで終わるのだ。けれど、それでも、欲求は古い太鼓のように僕に訴えかけている。(とんとんとんとん……)ねえ、遠くの世界へ飛んで行かないか? って。

 

ビーチ・ボーイズの「ココモ」は僕のお気に入りの曲だ。世界にはいろんな曲がある。ひとときの午後でうまれて、いまでは完全に忘れられてしまったものもあるだろう。そんな曲にも魔法の力がある。人に夢を見させる力。

ビーチ・ボーイズの「ココモ」は、とくに強い魔法の力を持っている。頭のうしろがすっと引っ張られていくような、解放の感覚がある。べつにこの曲は僕たちの感じる心を強くさせるのではない。普段から僕たちが思っている理想を、気前よく引っ張り上げてくれるだけなのだ。「ココモ」という甘い発音からうまれる発想は時間とともに広がっていく。幸せの感情は夢想とともにある。

 

日だまりをびんに集めた

さいきん……という出だしを僕はあまり好まない。結局、なにを語るにしても、それはある意味ではさいきんに考えたことでしかないのだ。僕たちは一度書いたものを戸棚の奥にしまって、それから何十年ものあとにそれを書き直しているわけじゃない。あたまの中にひっかかった言葉をここに書き出しているだけだ。だけど、僕はさいきんという出だしを使いたくなる。きっと、なにか理由のつかないことの言い訳のためだろう。

さいきん、詩的なものを考えることが多くなった。これはとてもいい傾向だと思う。詩的なこととは、つまり余裕からうまれるのだから。人はあくせく働いていては夢想をできないし、日だまりがなければ発想の紐をはじめることもできない。もちろん、働いていてもいいし、日だまりで時間を腐らせることもないと思う。だけど、僕個人に関しては、ずっとこのように想像を軸にして生きていきたい。僕にとって想像とは、昼の光のようなものだ。エネルギーは昼の光の暖かさからしかうまれない。

しかし、ずっと詩的なことを考えていられるわけではないのだろうな、と思う。幸せな時間というものは、努力すれば伸ばすことはできるだろうが、ずっとというのはきっとできない。そういうものだ。きっとあなたの幸せな時間もそうだったはずだ。どれだけ幸せで……どれだけ守りたいものでも、失ってしまったものはあったでしょう?

だから、いま僕は日だまりをびんに集めている。つまり、詩的な気分をがらすのびんにちょっとずつ詰めている。すこしずつ集めて、集めて、大事にしている。もちろん幸せは長く続かないけれど、見ることができるかたちで残していれば、少しは慰めになるかもしれない。そう考えている。

 

夏になって、洗濯物の機会がふえた。ひらひらとたなびくタオルが、ガラスにうっすらとうつっている。ちょっとした幽霊みたいに見える。僕はオカルトとか信じていないのだけど、こういう涼しげな幽霊なら、ぜひ会ってみたいと思う。いい感じの秋の夜だ。