世界の午後
午後が好き
みなさんは、午後が好きだろうか? 僕は午後が好きだ。
きっと、午後が好きかどうかなんて、一度も考えたことないと思う。しかし、こうやってひょんに訊かれてみると、きっと好きって答えるんじゃないかな、と思う。だって、午前は眠たくて仕方がないから……
けど、ほんとのところで僕が訊きたいのはそれじゃない。午前と比べることなしに、つまり午後を一直線先にぴしととらえて、そのうえで考えてみてもらいたいのだ。午後が好きか、どうかってことを。
僕はそうやってまっすぐに考えたとき、午後のことが好きだ。もちろん午後にはいろんな時間がある。夜も午後であるし、12時を過ぎればそれも午後である。ただ、僕が午後の言葉の中に覚えるのは、きわめて静かな、それでいて温かく潤んだ時空のかたちである。北のほうのちいさな村に残された、麦わらの枕で眠る夏の終わりは、そんな午後とよく似ている。何もなく、しんとしていて、包み込む優しさを感じられる。
ビール! ビール! ビール!
世界の言説では、酒は悪に分類されている。酔っぱらったり、熱中してしまったり、内臓を病んでしまったりするためだ。さて。それではビールはどうでしょう? ビールはいったい悪なるものか。それとも善なるものとしてあるのか。
もちろん、そんなこと誰にもわからない。
ビールはうまい。ビールがうまいということを人に説くと、男
はうんうんと頷く。女の子はゴーヤみたいに苦笑いをして「私はちょっと苦手かな」とそっと言う。
実際、むずかしいことなのだろう。ビール。それ自体でまるまる美味しいとは、たしかにいいづらい。もちろん僕くらいビール好きになればビールの大瓶だけをぐびぐびやることもできるし、それで満足したりもできる。しかし、ビールの神髄はそこではない。ラーメン、焼肉、お好み焼き。僕らがなにかを食べるとき。そのときにそっとそえられるビールが、ほんとうの意味でよいビールなのだ。
明日は立秋だ。夏も(コヨミノウエデ)今日で終わる。そんな夜に僕はビールを飲んでいる。ビールはよい。この苦さは、別れをつげるときの言葉に似ていて、とても少ない数であっても、じつに多様な意味をもつ。
世界の午後
最初の方で書いたみたいに、純粋になにかを好む気持ちはとても大事なことだと考えている。僕は午後が好きだ。午後のあのまどろむような日差しや、早めのビールや、まだ明るい墓地に撒かれる水の粉や、その光が……好きだ。
いまも世界のどこかでは、そのような午後がつつがなく進行している。それはまるで嘘みたいな話だ。夏のとき、秋の穏やかな日を懇願するように、僕は夜にあって午後を思う。ただ、それは現実に存在しているのだ。地球の回転が作り出す夢は時間すら超える。
また、夜風がふいた。扇風機にぶつかって、ほどけたあとにきえていった。
ベランダからやってきた風は、部屋の壁をべいごまみたいに滑ったあと、どこになく姿を消す。それは熟練の忍者みたいに強靭だ。あるいはメダカの稚魚みたいにすぐに死ぬ。
あるところでは……風のうまれるところでは、波が立っている。それは午後の中で静かに日を眺めている。僕と同じだ。
そういうふうにして、さいごの夏の日を過ごしていると、どうしても寂しくなった。風に墓はないから、ビールを片手にちょっと祈ってみた。