大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

サウス・サイド・オブ・ザ・スーサイドーーその②

寡黙の人間

 猫が足跡を残す砂の道があった。軽トラックはぼんやりと過ぎていった。道路からそれた横の道を、猫は先のほうまで歩いて行く。風を振りかわし、濁った水を踏み分けた。最後の砂のうえにすくっと立つと、僕のことを返り見た。尻尾をくるりと曲げ、黒の松柵をすりぬけた。柵向こうの庭を横切る黒猫は、パート・タイムの恋人のように、木々の後ろに隠れて消えた。

 それは家だった。それも、あまりに大きい家。近くでは家ということさえわからないだろう。舗装路から別れた砂の道があり、潮風でうつむいた松の林があり、和風の造りをした邸宅があった。敷地に対してひどく小さな門扉を見る。黒地に白の表札は……「南側」。

 うしろに海を抱えながら、僕は猫の絵を描いた。風通しのよい和室があり、きちんと畳まれたシーツがあった。黒の猫は白のシーツに眠っていた。シーツの折じわ、畳ぶちの幾何学までを描き込むと、柔らかなにおいを感じた。柔軟剤の、古い花のにおいだった。

 

 朝、船が出る音で目が覚める。まだ完全には朝になっていないころだ。夜はとくにやることもないのですぐに眠ってしまうから、ちょっと早くても問題ない。いや、むしろつめたい空気が体の毒を洗い流してくれるようで、心地よい。

 朝は家のまわりをぐるりと歩く。三分ほどの小径だ。ぬれた側溝があり、朝顔があり、ガス・メーターがあり、かさかさに乾いたひびの壁がある。

 帰ってくると新聞を読む。ただ、祖父から先に読む。もぐもぐと僕が朝ごはんを片付けているあいだに祖父が新聞をよみ、かたかたと祖父が朝ごはんを食べているときに僕が新聞を読む。「傷跡フカク……火災広ガル……被災者……離レタ母ト子」。神戸の記事は、そのときに比べると小さくなったが、まだ十分に取り上げられていた。それを読んでいて、僕はちょっと苦しくなる。ただ、悲しみは受けとめなければならない。

「なあ……大丈夫か?」祖父がそう言った。

「うん。大丈夫」僕はそう言った。

 悲しみは受けとめなければならない。誰にも押しつけることはできない。

 僕は口の中で小さく繰り返した。窓辺につやつやしい陶器が飾られていた。朝の光はちらちらと降りそそいでいた。コップの中の淡い水が、しんと静まり返っている。

 

 祖父は静かな人間だった。新聞を欠かさず読むタイプの人間でもあり、老眼鏡をかけるたちの人間だった。グレイのワイシャツはいつものりが効いていて、褪せた靴はひとつもなかった。きちんとしているのは見た目だけではなく、仕事の面でもそうだった。イタリアの商社と契約して錫釉陶器を中心に貿易、国内売買を取り扱っていた。失敗もあったが、成功も多かった。まとまった財産をひとつ、ふたつ築くと僕の父に仕事をそっくり引き渡して、引退した。普段は質素にしているが、外車を二つ持っている。

 仕事を辞め、祖母が亡くなると、いつも一人きりの時間を過ごした。午後になると仏壇に向かい、祈りを済ませた。あとは太平洋戦争にまつわる本を読み、夜は僕と同じで早くに眠った。島の人は早くに眠る。月のことを考える時間は少ない。

「おじいちゃん」

「んン……」

「南側さんって知ってるよね」

 祖父がうなずいた。折れた新聞がぱさりと音を立てた。鳥が朝の話をしている。

「南側さんが言ってたんだ……呪いだとか、ロマンスだとか……ちょっとうまく言えないんだけど、そういうことを」

 またうなずいた。コーヒーをすすった。「南側さんと親しくしているのか?」

「うん。僕が港で絵を描いてたら……それで散歩をするようになって」

「散歩……散策。西の崖か?」

「どうして知ってるの?」

 祖父はそれには答えなかった。ちょっと気まずくなって周りを見渡す……まだ朝だ。朝の風景が部屋にあり、外にあり、空気の中にただよっている。どこまでも朝がつまっている。世界のすべてが朝の姿でかたどられている……庭先で朝顔の蔓が影を落としている。上に、長くに、蔦はずっと伸び続けている。子どもの好奇心みたいに。

「南側さんはな、呪われた家計の人なんだよ」

 祖父がそう言ったとき、僕はちょっとびっくりした。祖父はわかっていたように繰り返した。「呪われた家計の人なんだよ。まったくだ」

「呪われた……?」

 祖父は何も言わなかった。……朝だ。静かな……光が白んでいる。

「なあ、とまる……呪いのことを信じているか?」

 しばらくのあとに、おじいちゃんがそう言った。

 

 暑いので、あしたにつづく。