大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

僕にとって大切なこと

ジョージアの、コーヒーの、ホットとアイスとレトリバー

僕はあくびをした。みなさんがあくびをするように、あくびをした。それなりに晴れていた朝だった。そろそろ一つ目の授業が始まるころだ。僕は教室に向かう、ことはなく、木詰めの空間でお姉さんを眺めていた。

 

ちょっと前のことだ。大学の旧図書館のまえに、コーヒーの無人販売機が設置された。茶色と白のデザインに、ボタンが二十個ほどついている。メーカーはジョージアで、ホットとアイスが選べた。コーヒーはブレンドアメリカン、エスプレッソ。カフェオレや、もっと甘いものも頼める。他の自動販売機と比べると少し小ぶりで、スペースが余っていた。しばらくして、そのスペースにちょこんと可愛らしいひさしがとりつけられた。

僕はそこでよくコーヒーを買った。アメリカンだった。べつに、その味は美味しいというほどではない。ただ、僕はそのひさしを特別気に入ったのだ。それはとりわけ気に入ったと書いていいほどの気持ちの入れようで、僕もびっくりするくらいだった。どうして気に入ったのか、どこが良いのかというところを訊かれてもまったく答えられなかったが、それでもひさしをすごく好んでいたのはたしかだった。だから、僕は朝になるとコーヒーを買うことを口実に、そのひさしをじっと眺めた。水色と白色のまるっこいひさしがぱたぱたしており、風が吹くとつるんとした枠のところが見え隠れした。販売機は木詰めの空間の隣にあった。僕は木詰めの空間から、コーヒー片手にそのひさしのことをうかがった。飲み切ってしまうと、仕方なく行くべき場所へ消えた。

こう書いてみると、なんだか好きな女の子にいたずらする少年みたいに思える。もちろん、まったく同じではない。違うところは、違う。少年は好きな子の気を引くためにいたずらをしている。僕は好きなひさしを眺めるためにコーヒーを買って百円玉を無駄にしている。とくにこの点においては、まったく違うね。 

 

だからその朝も百円玉を無駄にするはずだった。だけど、それはできなかった。そのとき、業者の方がその販売機のメンテナンス、あるいは手術をしていたからだ。

メンテナンス、あるいは手術。そう言うとなんだかイメージしにくい。でも、きっとみなさんも見たことがあるはずだ。自動販売機は、自動という名前だが、実際には自動ではない。極めて当たり前の話だけど、中身がなくなれば誰かが入れ替えないといけないということだ。そのとき、業者の方がやっていたのはそれだった。販売機の腹をひらき、六つや八つのそれぞれの臓器みたいなところに、コーヒー豆やミルクをつぎ込んでいた。メンテンナンス中、あるいは手術中だったのだ。だから僕は買えなかった。

 

僕はあくびした。みなさんがするようなタイプのあくびをした。つまり、平凡なあくびだ。

 

販売機は木詰めの空間の隣にあった。そのときの僕はなぜかあきらめきれなくて、木詰めに座って業者の方のことを眺めていた。もうすぐ授業が始まるはずなのに、どうしてだろう?

業者の方は、お姉さんだった。素敵なジョージアの制服を着ていた。とても動きやすそうな、健康的な服飾だった。僕は素敵だな、と思った。

お姉さんはVANSの赤い靴を履いていた。僕はそれについてとても素敵だと感じる。

また、お姉さんはキャップをかぶっていた。キャップの穴からはまとめられた薄い金の髪が長くたれていた。それは風が吹くたびにゆるくふわりと膨らんだ。それはラブラドール・レトリバーのしっぽを想起させた。カウチに人間みたいに横たわっていて、僕が帰るとのろのろと歩いていくるタイプのラブラドール・レトリバーだった。そいつは僕のことをくんくんかぎ、やがてそのふわふわの体を僕にこすりつけてくる。

 

結局、その日僕はコーヒーを買えなかった。そして、授業にもちょっと遅れた。

そして、この話はここで終わりだ。どこにも行かない話なのだ。あるいは霧のようにすっと立ち消えてしまうタイプの話だ。文句は受け付けない。

ただ、お姉さんの姿を見て以来、僕はなぜかひさしに惹かれなくなった。ひさしは相変わらず水色と白色でぱたぱたしているのが、それを見てもどうも思えなくなってしまった。興味を持てなくなってしまったのだ。

だけど、僕はまだ百円玉を無駄にし続けている。朝の授業の始まるまえの、小さな時間にコーヒーを買い、あのお姉さんのことをぼんやり思い出している。

ねえ、わかるかな? そういう楽しみが、僕にとって大切なことなんだ。