大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

迷宮的感情――その①

サンシャイン・ラブ的ノーベル賞

みなさんはムラカミ・ハルキという作家をご存知だろうか? きっと、多くの人が知っていると思う。よくノーベル文学賞の候補として槍玉にあげられて、そのままうちすてられてしまうおっさんのことだ。彼は海の夢の一歩手前まで行くのだが、そのときにいつも足元の断崖が崩れ落ちるようにして受賞を逃している。

これはべつにムラカミ・ハルキに限ったことではないけれど、ノーベル文学賞の流れを見ているとなんだかうんざりしてしまう。たしかにノーベル賞を貰うというのはじつに栄誉なことだし、なかなか恵まれているとも思う。ある意味での時代の頂点を取ったと言っても言い過ぎではないだろう。しかし、選考の過程でごたごたに巻き込まれるのは、とんだ迷惑だと思う。賞を夢見る人がいるのと同時に、深く感心を持たない人々もいるのだ。ただ、世間は個人の心持ちなんかはまったく気にせず、よいしょよいしょと盛り立てるだけ盛り立てる。それで受賞すればまあいいのだが、受賞を逃してしまうとうすら寒いことを口にしたり、個人に向かってぶつぶつと文句を言い始めたりと、まるで良いことがない。ぬるいビールと同程度には、ひどいもののように感じる。

 

ある種の面倒事は見ているだけでうんざりする。受賞もそうだが、一般的に形式ばったものはこのように個人をないがしろにする性質がある。僕はそういったものが本当に苦手で、ため息まじりに捉えざるをえない。長年形式ばった物事の束縛から逃れようとしてきたが、これまた難しく、いくら試行錯誤しようとも、最後には堅いれんがの壁に阻まれてしまって、どうしようもなくなってしまう。僕は思う。きっとそういう定めなのだ、と。それでも、同時に、もっとロックみたいにすっきりとやってしまえないのだろうか、とも願望を抱く。たとえば、そう、「サンシャイン・ラブ」みたいにかっ飛ばす具合にやってしまえないのだろうか……ねえ、もしこのへんにサンシャイン・ラブ的ノーベル賞があったら、ちょっと馬鹿馬鹿しい感じもしますけど、それはそれで素敵な賞だと思いませんか?

 

サンシャイン・ラブ

youtu.be

 

ムラカミ・ハルキ、ノ、トーロク

ムラカミ・ハルキ。ムラカ・ミハルキ。

僕が初めて彼の名を目にしたのは、レイモンド・チャンドラーの和訳版「ロング・グッドバイ」だった。高校の頃、僕は「晩年」を皮切りにつぎつぎと本を読み始めていた。飢えた狼のように多くの本に手を伸ばし、一から十までばくばく読み込んでいた。「ロング・グッドバイ」はそんな時期に読んだ本のひとつだ。べつに僕が手に取ったわけでなく、前々から仲のいい先生に勧められていた本だった。

「ねえ、オーニシ君、『ロング・グッドバイ』っていうね、いい本があるんだけど」先生は古い秘密を打ち明けるみたいに僕にそう言った。

ただ、それまで読んでいた太宰治谷崎潤一郎と違って、それは英語の本だった。もちろん僕には英語のそれを読むことなんてできない。僕の英語は惨憺たる出来だったし、日本語以外で感情表現を受け取ることなんて(そのときは)できないと思っていたからだ。

 

僕は英語ができない人間だ。義務教育むなしく、小学校で芽生えた僕の英語能力は、中学教育の段階でぱたりと萎えてしまったきりで、いまになってもまったくだ。他の教科と違って英語だけが地に落ちていた。まるで勉強する気になれなかったのだ。僕の中学の英語教育がやんごとなくレベルの高いものだったこともあるが、とにかく英語の繊細な構造が気に入らなかった。(ある時点での数学も同じだが)少し間違えるだけで拒絶されるようなその態度とうまがあわなかった。

ただ、中学時代の英語の先生には感謝してやまない。先生のおかげで僕はビートルズと出会うことができたし、洋楽の魅力を知ることができたからだ。英語の先生、つまりH先生はちょうどビートルズの世代で、つまり大ファンでもあった。ビートルズ愛は凄まじく、彼らの訪日にかこつけて羽田空港に赴いたH先生は、あまりの感動に鼻血を出して失神してしまったほどだ。

 

まあとにかく僕は「ロング・グッドバイ」を日本語で読むしかなかった。つまり和訳だ。

「和訳なんて、どうしようもない嘘っぱちだ。訳者を介している時点で、それはもう別のくだらないものだ」と、初めのほうはそう考えていたのだが、やがて英語なんてやはり読めるわけがないとわかると、僕は仕方なく和訳を読み始めた。それがムラカミ・ハルキの訳だったのだ。

結果から言うと、「ロング・グッドバイ」は文句なしに優れており、心を揺さぶる力があり、笑顔になれるほど清々しい内容であった。そして、その翻訳においても、優れていた。僕は彼の名前をはっきりと覚えることになる。――――そう、村上春樹

<ムラカミ・ハルキ。ムラカ・ミハルキ。データ、トーロク、カンリョウ>

そしてここから僕は彼の本を読み漁ることになる。「風邪の歌を聴け」、「ハナレイ・ベイ」、「パン屋再襲撃」、「羊を巡る冒険」、「ダンス・ダンス・ダンス」……あまり声を大にして言うことはないし、べつに重要なことでもないのだが、僕の羊という名前は彼の描く作品から来ている。

ムラカミ・ハルキ。彼はそれほど僕に強く影響を与えた作家であった。そして、同時に――――僕が迷宮的感情を抱き、悩まされる対象でもあった。

 

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椰子の木がたぶん出てくるムラカミの小説

さて……なんだか長くなりそうだ。いまちょうど二千文字くらいでこれからまだまだ書くことを予想すると、ここらで区切った方が賢明だろう。僕の言葉はしばしば長くなりすぎる。京都銀行のちくわのように伸びてしまって、ひとつの作文に収めるにはいささか不適当なものになってしまう。だからここまでを「迷宮的感情①」にして分けることにする。ここまでが①、この先が②とする。ここを椰子の木の木陰にして、一息つくためのセーフ・エリアとする。

①の風景を見て、許せるのなら②のほうへ行ってください。許せないのであれば、他にすべきことをこなしてから、まあビートルズでも聴いてください。『マジカル・ミステリー・ツアー』とか、とてもいいアルバムですよ。

②に続く