大西羊『作文集』

作文を書きます。小説も、書くかもしれません。

サウス・サイド・オブ・ザ・スーサイド――その①

南側さん

 高速道路をバスが過ぎていく。風景には山や、ちぎれた秋の雲があり、背の低い家々がある。海がその向こうにあるはずだが、まだここからは確認できない。ときどきに頭をもたげているススキの影には、小さく切り取られた秋を感じた。僕は窓の向こうを眺めている。形式的な九月の風景が繰り返されている。

 ふと下を見やると、前方の流れから、空色に塗られたガード・レールが顔を出した。どうやらガード・レールに絵が描かれているようで、青地のつぎに白で飛行機が描かれていた。僕は目で追いかけながら、考えた。誰がこんな辺鄙な場所をわざわざ飾り立てたのだろう? 

 十秒ほどのちに、青の絵は消え、またアルミ色に立ち戻る。まるでさっきの飛行機なんてどこにもなかったかのように、ガード・レールは知らんふりをしている。

 

 すべてが過ぎていく。やがて現れる。そこに僕の意思はない。風景は変わっているが、どれも既視感のあるものだ。万華鏡のように、嘘の変化が繰り返されている。実のところでは同じなのだ、ずっと。

 対向車線をトラックが過ぎていく。プリウスが過ぎ、トラックが過ぎる。ほんの僅かな時間のあいだに、消えていく。あまりにも素早く見える……ぶつかってしまえば一溜りもないだろう。肉が裂ける、血が焦げる……バスに乗って長い間、内蔵が油に包まれているような感覚だった。少し体調が悪いのだ。僕はカーテンを閉じた。風景は閉ざされる。変化だ……

 目を閉じる。

 南側さんが亡くなったとき、僕は悲しい思いもした。だが、それよりは奇妙な思いのほうが、ずっと強かった。

 当たり前のように南側さんの葬式は行われなかった。親戚も、手立てをする親しい人もいなかったという事実だけがあった。南側さんは孤独に死んだのだ。

 僕が彼のデッド・エンドについて知り得たのも、ほんの偶然のことだった。これがなければずっと知り得ないことだっただろう。普段は読まない新聞の端に、ちょっと残されていただけだった。

「……昨日未明……ニテ、男性死セル。交通事故デアリ、調査中……南側長里、サンジュウニ歳……」

 それ以上のことはなかった。調査中とあったが、あまり信じられる字面ではなかった。真実があろうとなかろうと関係なく、交通事故として終わるのだろう。そう感じた。

 

 石川県の小さな町に住んでいた。人口は五千ほどで、その半分が海の仕事をしている。祖父の家は神社の隣の高台の上にあり、窓を開けると潮風があった。大震災から逃げてきた僕に与えられたのは二階の和室だった。寝転ぶとい草のにおいと白い光が心地よくまざった。

 その頃はまだテレビで神戸の町が映し出されていたらしい。潰れたコンクリート、割れた線路、鬱々しい高架の柱……僕はよく知らない。祖父は僕を気遣ってかどうか、テレビのコンセントを引き抜いたままにしていた。静かな朝食の時間には、遠い港から笛の声が聞こえた。

 僕が南側さんに出会ったのは九月のことだった。天気のいい日で空がよく見えた。僕は散歩が好きで、よく港に出かけていた。釣りをしたり、漁を見物したりしていた。絵を書くこともした。ノートと絵の具なんかで、町のスケッチをしていた。とくに自然の様子を書くのが好きだった。自然というオリジナルに表れる美しさを噛みしめるようにして描き表してみるのだ。山を描き、海を描き、空を描く。ただ、海が平面なために、その空まで潰れたように見えていた。青い画用紙にフェルトが糊付けされているように平たく、雲の隆起を示す線はどこか作為的で、人工物の印象を受けた。そんな空に比べるとそばの灯台のほうが好きになれた。ただ、灯台は描かなかった。ポリシーに反していたからだ。

「ねえ、それはあの山?」

「そうですよ」

「広く絵を書くんだね」

「広く?」

「いや、巨視的に書くんだねって言いたかったんだ」

「そうですね……自然が好きで……」

「そう、自然……いいね。僕は好きだよ。君のその絵」

「名前は?」

「岡山とまるです」

「そう……いい名前だね……」

「あなたは?」

「名前……ミナミガワチョウリだよ……サウスサイドと、長い里だ」

「へえ」

「ねえ、君は男?」

 僕はぎこちない返事をした。そんな質問をされると思っていなかったからだ。

「ねえ……僕は何に見える?」

 僕はそう言われて初めて振り向いた。僕の肩のちょうど後ろから、長身の人間がノートの中を覗いていた。見た目では男だと思った。僕は杭から立ち上がり、彼のほうに向き直したが、彼は僕をちらりと見ることもしなかった。ただしげしげと、長いこと絵を見つめていた。

「男性ですか?」

「そう……男性だよ。僕はね……素敵だろ?」

 そこで初めて彼と目があった。

 

 南側長里。僕よりは少し上だが、それでもかなり若い。若い人を見るのは久しぶりだった。町はほとんど田舎であり、若い人は都会に出ていってしまうからだ。また、若者以外でも都市へうつっていく人は多かった。家族がそっくりそのままいなくなってしまうのだ。点在する暗い家は捨てられたものだった。

 残っている人の多くは老人だた。漁を手伝うなどして彼らは朗らかに暮らしていたが、影には青ざめた血の色があり、弱々しく感じた。話を聞けばそれぞれに無数の理由があったが、実際には、歳をとったためにもうここで死ぬしかないといった人ばかりだった。僕にとって、それは呪いのように響いた。土地の呪い。肉体の呪い。呪いを払いのけるには、彼らはあまりにも弱く、残さた時間はじつに短い。

 南側さんはそんな町にいる、数少ない若者だった。僕は変に思った。どうしてこんな町にいるのか……彼もまた、呪いにかけられているのだろうか?……

 僕はその日を境に、南側さんと話し始めるようになった。港で釣りをしたり、絵を描いたりしていると南側さんから話しかけてきた。きっと若者が少なくて寂しいのだろうと思った。ただ、話すうちにそうではないと考え初めた。彼はどんな人とも親しげに話しをしていたからだ。老人とも、漁師とも、僕の祖父とも……いつもにこにことしていた。目が細く、鼻が高い美形だった。体つきはほっそりとしてスタイルがよかった。年齢と同じで、着ている服もなんだか町の人と一線を画していた。神戸でも十分に通用する洗練されたデザインをしている。そんな彼が老人たちと話している風景は、バランスがなかった。南側さんが詐欺師ではないかと考えたこともあった。だが日常の話ばかりしかしない。咲いた花や、健康や、漁の具合や……それに、わざわざこんな場所で詐欺をする必要なんてないのだ。呪いのことを、また考えてみた。

 

 彼は本当に誰とでもよく話をした。僕と南側さんはよく散歩をしたが、道で誰かとすれ違うたび、挨拶をして、世間話をした。話し方は風が吹くように軽々としたもので、不思議な印象があった。それでもなぜか不快に感じることはなかった。

 トタン家の壁に、朝顔の蔦が絡んでいる。

 

 港から始まる散歩道には三つのルートがあった。ひとつはそのまま港に沿ってぐるりと回るルート。そして、坂になっている町の中央を目指してまた下るルート。

 今日のルートはせり出している町の西側の崖を横切っていくルートだった。道路を外れ砂利道が続くと家屋は少しずつ姿を消した。立派な松がたちならぶ林のつぎに、黒ぐろと濡れた崖があった。下を覗くと沢山の漂流物があった。端材、網、赤いビニル製品、約瓶、割れた煉瓦、レコードの断片……雨の次の日には、魚群の死体が崖下を埋め尽くした。

「迷い込むんだ……ここは迷路なんだ。雨で見えなくなると、慌てた魚がつぎつぎに崖に身を打つ……自殺さ。それも集団でね……」

 雨でくすんだ色をした海があり、向こうではまだ振り続ける雨雲が見えた。崖下はどんよりとした茶色をしており、口の中がべっとりするくらいに血のにおいがあった。

 雨の次の日には必ずこのルートを歩いた。南側さんが、そうしようと言ったのだ。僕はとくに断ることはしなかった。ちらかった魚の肉を見ても、なぜか不快にはならなかった。

「ねえ……不思議だろ。僕がこんなに開放的な人間だなんて」

「不思議……ってことはないですけど、たしかにすごいですね。本当に誰とでも仲が良くて」

「すごい……そうだね。優れてるわけじゃないよ、僕はね」「秘密があるだけさ……」

「秘密?」

「そうさ……君のお祖父さんに、聞いてみることだな……ふふ……」

「直接は教えてくれないんです?」

 僕はそういった。

「ねえ……ロマンスには、しきたりがあるんだぜ……」

 そう言うと彼は笑った。とても軽い笑いだった。乾ききった虫の死骸のようだった。南側さんはべつに痩せすぎているというわけではない。ただ、強くそう感じさせるのだ。軽々しい。

 それからは何も言ってくれなかった。秘密めいた態度でくすくすと笑うだけだった。そんな態度だったが、不快な感じはなかった。僕が覚えたのは奇妙さだった。沖では波のうねりが繰り返されている。海流もまた奇妙な力であり、目で捉えることはできない……

 

つづく。